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後鳥羽院撰「時代不同歌合」その三 [時代不同歌合]

その三 中納言家持と藤原清輔(再撰本=中納言国信)

家持と国信.jpg

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he04/he04_01584/he04_01584_p0005.jpg

藤原清輔.jpg

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he04/he04_01584/he04_01584_p0012.jpg

七番
   左                中納言家持
まきもくのひばらもいまだくもらぬに小松が原にあは雪ぞふる(新古今春上)
   右                藤原清輔
たつた姫かざしのたまのををよわみ乱れにけりとみゆる白露(千載秋上)
(注:再撰本では家持と国信が合わされている。「かすがののしたもえわたる草の上につれなくみゆる春の淡雪(新古今春上)=国信」)

八番
   左
かみなびの三室の山のくずかづら裏ふきかへす秋は来にけり(新古今秋上)
   右
今よりは更け行くまでに月はみじそのこととなく涙おちけり(千載雑上)
(注:再撰本では家持と国信が合わされている。「なにごとを待つとはなしにあけくれて今年もけふに成りにけるかな(金葉冬)=国信」)

九番
   左
かささぎのわたせる橋におく霜の白きをみれば夜ぞ更けにける(新古今冬)*
   右
冬がれの森のくちばの霜の上におちたる月の影のさやけさ(新古今冬)
(注:再撰本では家持と国信が合わされている。「山ぢにてそほちにけりな白露のあかつきおきの木々の雫に(新古今旅)=国信」)

(参考)

http://www.emuseum.jp/detail/100258

家持と国信二.jpg

重要文化財 1帖 紙本墨画 28.3×49.6 鎌倉時代・14世紀 東京国立博物館 A-19

(周辺メモ)

http://dep.chs.nihon-u.ac.jp/japanese_lang/pdf_gobun/158/158_02_oobushi.pdf

『時代不同歌合』の番いの研究 ――初撰本と再撰本について――(大伏春美)

2 初撰本と再撰本の番いの変更について  

本作品は藤原公任の『三十六人撰』の形式を踏襲するから、 樋口氏の指摘のように、ひとり三首ずつの秀歌をみることと、 歌合の番いとして対者との組み合わせをみることの二つの楽しみ方がある。 さて、初撰本と再撰本では、寺島氏の指摘のように四組の番いの変更が見られる。即ち

初撰本 家持――清輔、篁――国信、業平――西行、 伊勢――良経
再撰本 家持――国信、篁――西行、業平――良経、 伊勢――清輔

である。左の歌人はそのままで、右の歌人は清輔が後ろにまわってずれている。以下で具体的にみてゆくことにするが、そ の前にこの作品の番いの傾向を知るために、わかりやすい例を取り上げたい。

(初撰本=「家持と清輔」と再撰本=「家持と国信)

初撰本の家持・清輔の番いは、『万葉集』をまとめた家持に対し、六条藤家の歌学者清輔であり、私撰集の続詞花集』他 を撰びまた歌学書を多くまとめた実力者であるから、和歌に造詣の深い二人を並べ、適切な組み合わせと思われる。 一方、再撰本の家持・国信の番いの歌を見ると、それぞれの 歌もうまく対応しており、良い組み合わせと考えられる。また 国信は実力や業績は清輔に劣るにしても、堀河歌壇で活躍した 人物であり、『堀河百首』への関与や詠出、自家の歌合の主催 なども見られる。
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後鳥羽院撰「時代不同歌合」その二 [時代不同歌合]

その二 山辺赤人と法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠道)

山部赤人・藤原忠道.jpg

「時代不同歌合絵巻 : 模本. 1-4 / 後鳥羽院 撰」早稲田大学図書館蔵
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he04/he04_01584/he04_01584_p0004.jpg

四番
   左               山辺赤人
あすからは若なつまんとしめし野に昨日もけふも雪は降りつつ(新古今春上)
   右       法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠道)
漣やくにつみかみのうらさびて古き宮こに月ひとりすむ(千載雑上)

五番
   左
ももしきの大宮人はいとまあれや桜かざしてけふも暮しつ(新古今春下)
   右
おもひかねそなたの空を詠むればただ山のはにかかる白雲(詞花雑下)

六番
   左
和歌の浦に汐みちくればかたをなみ芦べをさしてたづ鳴き渡る(続古今雑上)
   右
わたの原こぎ出でてみれば久方の雲ゐにまがふ興津白波(詞花雑下)

(参考)

http://www.emuseum.jp/detail/100258

赤人・忠道二.jpg

重要文化財 1帖 紙本墨画 28.3×49.6 鎌倉時代・14世紀 東京国立博物館 A-19

(周辺メモ)

http://dep.chs.nihon-u.ac.jp/japanese_lang/pdf_gobun/158/158_02_oobushi.pdf

『時代不同歌合』の番いの研究 ――初撰本と再撰本について――(大伏春美)

1 諸本について
本作品は左右の五十人の歌人の各三首を歌合形式にしている が、百五十番に記すものと、一人三首ずつにまとめて五十番に 記すものがある。五十番の時は三首まとめての和歌の享受がされやすいと思う。また歌仙絵がある時も五十番の作品が多い。 諸本研究は樋口氏著書が詳しい。氏は諸本を六種類に分ける が、A本は孤立しており、B本がC・D・E本と展開してゆく として分類する。伝本について、樋口氏の分類を記し主な伝本 と活字本を記すと

初撰本は A本   穂久邇文庫蔵伝飛鳥井雅康筆本  日本歌学大系 甲本
    B本   群書類従巻二一五所収本  など
     C本   宮内庁書陵部蔵501・608本など 『王朝秀歌選』所収
    D本   愛知教育大学蔵本  C本と赤染衛門の歌一首の違い
再撰本は E本   宮内庁書陵部蔵501・556本など多数 F本とは後鳥羽院歌二首の違いと、西行歌の順 序の違いあり
F本    宮内庁書陵部蔵501・609本 新編国歌大観所収本

次に樋口氏・田槇氏の未紹介の本を記す。ともに早稲田大学 中央図書館蔵である三本で、再撰本である
〇『時代不同歌合』 ヘ4・1584 一巻 一軸 彩色画あり 江戸期の模本 本文は樋口氏著書分類のE本(東京国立博物館蔵 勝川雅信写本)に近似  一番に三首ずつ記す五十番本  早稲田大学図書館の検索システムWINEに画像情報あり
〇(外題なし) イ4・3164・84 一巻 一軸 明暦二年(一六五六)写 五十番本
絵なし 下巻のみ 蝉丸から宮内卿まで(二十五番から五十番まで)E本
〇『時代不同歌合』 四巻四軸 チ4・6345・1〜4 文政三年(一八二〇)古致写  
彩色画あり 五十番本 一巻は 人麿から良暹まで(一番から十七番まで)、二巻は貫之から秀 能まで(十八番から三十三番まで)、三巻は絵を部分的に模写 したもの、四巻は順から宮内卿まで(三十四番から五十番まで) を記す。四巻の内題に遠藤伴介とあり。WINEに画像情報あり F本


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後鳥羽院撰「時代不同歌合」その一 [時代不同歌合]

その一  柿本人麿と大納言経信

人麿と経信.jpg

「時代不同歌合絵巻 : 模本. 1-4 / 後鳥羽院 撰」早稲田大学図書館蔵
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he04/he04_01584/he04_01584_p0003.jpg

一番
   左                柿本人麿
たつた河紅葉ばながるかみなびのみむろの山に時雨ふるらし(拾遺冬)
   右                大納言経信
夕さればかどたのいなばおとづれてあしのまろやに秋風ぞ吹く(金葉秋)

二番
   左
足引の山鳥のをのしだりをのながながし夜をひとりかもねん(拾遺恋三)
   右
秋のよは衣さむしろかさねても月の光りにしくものぞなき(新古今秋下)
【君が世はつきじとぞおもふかみかぜやみもすそ川のすまむかぎりは(後拾遺賀)】

三番
   左
乙女子がそでふる山のみづがきの久しき世より思ひそめてき(拾遺恋四)
   右
おきつかぜ吹きにけらしな住吉の松のしづえをあらふ白浪(後拾遺雑四)

(参考)

http://www.emuseum.jp/detail/100258

人麿と経信二.jpg

重要文化財 1帖 紙本墨画 28.3×49.6 鎌倉時代・14世紀 東京国立博物館 A-19

左に古今集、後撰和歌集、拾遺和歌集の歌人を、右に後拾遺和歌集、金葉集、詞花集、千載和歌集、新古今和歌集の歌人を配したもので、後鳥羽上皇(1180~1239)が各時代の歌人をとり合わせて歌合を創ったものである。ほんらい150番の歌からなる上下2巻のものであるが、この東京国立博物館本はその上巻、75番からなる。もともと巻子であったものを現在は切り離して画帖形式となっている。
 絵は色彩を用いない白描で、面相部が比較的細緻な筆で、体はおおらかな筆線で描かれている。原本は後鳥羽上皇の周辺で、藤原信実に代表される絵師による似絵の手法で作られたものであろうことが、ここからも想像される。時代不同歌合は他にも伝存するが、本作品は鎌倉時代にさかのぼる、しかも上巻を完存する唯一の遺品であり重要である。

(周辺メモ)

『御影御日記』の建武三年(一三三六)十ニ月二十五日に、「時代不同御絵、先皇殊被執思食之条、定被知食置歟、且御影堂御本尊、若不慮事令出来給者、以此御影可奉尊崇之由、慥承勅定二条局西御方所奉持也」とある。この「西御方」は慈光寺本『承久記』、また、『平戸記』にもその名があり、「時代不同歌合絵巻」は、後鳥羽院の在世中に制作されたものと考えて良い。『続史愚抄』によると、「光明天皇の命により、先皇の光厳院の、のちに南朝の大臣となった冷泉大納言公泰から光厳院にもたらされた。」(『日本歴史叢書 肖像画 (宮崎新一著)』の要約)


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「百人一首」の周辺(その三) [百人一首]

その三 七夕の六歌仙(葛飾北斎筆)

六歌仙北斎・.jpg

七夕の六歌仙(葛飾北斎筆)
https://collections.mfa.org/objects/216480

(周辺メモ)

後列右から、小野小町 (おののこまち・生没年不明・歌番号9)→僧正遍昭 (そうじょうへんじょう・816-890年・歌番号12)→大伴黒主 (おおとものくろぬし・生没年不明)

前列右から、在原業平 (ありひらのなりひら・825-880年・歌番号17)→文屋康秀 (ぶんやのやすひで・生没年不明・歌番号22)→喜撰法師 (きせんほうし・生没年不明・歌番号8)

8 わが庵は都のたつみしかぞすむ 世をうぢ山と人はいふなり 喜撰法師
9 花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに  小野小町
12 天つ風雲の通ひ路吹き閉ぢよ をとめの姿しばしとどめむ     僧正遍照
17 ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは   在原業平朝臣
22 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ    文屋康秀

(大伴黒主)

https://www.rakuten.ne.jp/gold/ogurasansou/karuta/210.html

六歌仙のうちひとりだけ百人一首に選ばれなかった大友(大伴とも)黒主(おおとものくろぬし)という人物。
平安時代の歌人だったことはわかっていますが、大友皇子(おおとものみこ)の末裔という説があるいっぽうで大友村主(すぐり)黒主という役人と同一人物だろうともいわれ、
いまだにその正体は突き止められていません。
村主は大陸からの渡来人を管轄する者に与えられた姓(かばね)です。大友氏は近江国の滋賀郡大友郷に本拠地を置く氏族だったとか。
『古今和歌集』を見ると、その長(おさ)らしき黒主が、醍醐(だいご)天皇に近江の風俗歌(ふぞくうた=民謡)を献上しています。平安時代の貴族は諸国に民謡を提出させ、宮廷などで遊宴歌謡として愛唱していました。
あふみのや鏡の山をたてたれば かねてぞ見ゆる君が千歳は(古今和歌集 神遊 大伴くろぬし)
近江の鏡山には鏡が立ててありますからあらかじめ見えるのです あなたの千年の長寿が神前で歌い踊る神遊びの歌に分類されており、醍醐天皇の大嘗会(だいじょうえ)のために献上されています。大嘗会(大嘗祭とも)は天皇が即位後初めて行う新嘗祭(にいなめさい)のことです。
ところが『続後拾遺和歌集』に大伴黒主の名で載る歌は伊勢の風俗歌と詞書にあり、醍醐天皇の祖父、光孝天皇(十五)の大嘗会に献上されています。近江でなく伊勢の歌だというのが不思議です。
伊勢の海のなぎさを清みすむ鶴の 千とせの声を君にきかせむ(続後拾遺和歌集 賀 大伴黒主)
伊勢の海の渚は清らかなので鶴が通ってきています。その千歳の声(=長寿を祈る声)をあなたにお聞かせいたしましょう。どちらの歌も内容は長寿を祈る賀歌(がのうた)です。
こういうめでたい歌詞の民謡が各地にあったのでしょう。

風俗歌ではない、通常の歌も伝わっています。唐崎(からさき=琵琶湖西岸の地名)の浜である貴人が禊(みそぎ)をしていました。黒主はその貴人の案内や警固をしていたようなのですが、みるという名前の侍女に一目惚れしてしまいました。冗談を言ったりして戯れているうちに禊が終わり、貴人の一行は帰っていくことに。名残を惜しんだ黒主はみるに歌を贈りました。
なにせむにへたのみるめを思ひけむ 沖つ玉藻をかづく身にして(後撰和歌集 雑 くろぬし)
何のために渚の海松布(みるめ)に恋したのだろう。(わたしは)沖の藻を潜って採るような身分なのに、「へた」は「端」で波打ち際のこと。「海松布(みるめ)」は海藻の名前で、
「見る」と女性の名の「みる」に掛けています。この歌の黒主は近江の黒主にまちがいなさそうです。
研究者でも確信がもてないというのが実情のようですが、平安時代中期には黒主は近江に実在した人物と信じられていました。鎌倉時代の鴨長明は「志賀の郡(しがのこおり)」に黒主の明神が祀られており、昔の黒主が神になったものだと記しています。(無名抄)
これは大津市にある黒主神社のこと。伝説的歌人を祀ったものでは、ほかに蝉丸神社や猿丸神社もあります。実在が不確かな人物でも時を経れば神になり得るので、黒主もその例のひとつなのでしょう。

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「百人一首」の周辺(その二) [百人一首]

その二 六歌仙(喜多川歌麿筆)

歌麿・六歌仙.jpg

喜多川歌麿筆「六歌仙」
http://lcweb2.loc.gov/service/pnp/jpd/02100/02188v.jpg

(周辺メモ)

右から「時計回り」順に、僧正遍昭 (そうじょうへんじょう・816-890年・歌番号12→大伴黒主 (おおとものくろぬし・生没年不明)→文屋康秀 (ぶんやのやすひで・生没年不明・歌番号22)→)喜撰法師 (きせんほうし・生没年不明・歌番号8)→在原業平 (ありひらのなりひら・825-880年・歌番号17)→小野小町 (おののこまち・生没年不明・歌番号9)

康秀と小町.jpg

喜多川歌麿筆「六歌仙」(康秀と小町)
https://ukiyo-e.org/image/japancoll/p9000-utamaro-two-poets-3541

遍照と小町.jpg

喜多川歌麿筆「六歌仙」(遍昭と小町)
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/45009

https://musbic.net/2018-05-17/7004

岩の上に 旅寝をすれば いと寒し 苔の衣を 我に貸さなん(小野小町)
世をそむく 苔の衣は たゞ一重 貸さねば疎し いざ二人寝ん(僧正遍昭)

高貴なお生まれにも拘らず、若くして出家なさったイケメン僧正遍昭(へんじょう)と、謎の美女・小野小町。平安時代のビッグカップル、噂のお二人の真相はどうだったのでしょう?
お二人の関係を知る手がかりが『大和物語』にありました!
『大和物語』に登場する僧正遍昭と小野小町の物語は、『後撰和歌集』に残されている、お二人の問答歌がベースになっています。遂行されずに終わった「百夜通い」から数年、僧正遍昭が出家した後のお話です。


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「百人一首」の周辺(その一) [百人一首]

その一 六歌仙(土佐光起)

光起・六歌仙.jpg

土佐光起筆「六歌仙」 江戸時代・17世紀 絹本着色 100.3×49.6 1幅 東京国立博物館蔵 文化遺産オンライン

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/257215

六歌仙

https://hyakunin.stardust31.com/rokukasen.html

「六歌仙(ろっかせん)」とは、古今和歌集の仮名序において紀貫之が挙げた六人の歌人のことで、そこには「近き世にその名聞こえたる人」として紹介されています。
 その六歌仙とは

僧正遍昭 (そうじょうへんじょう・816-890年・歌番号12)
在原業平 (ありひらのなりひら・825-880年・歌番号17)
文屋康秀 (ぶんやのやすひで・生没年不明・歌番号22)
喜撰法師 (きせんほうし・生没年不明・歌番号8)
小野小町 (おののこまち・生没年不明・歌番号9)
大伴黒主 (おおとものくろぬし・生没年不明)
( *歌番号は百人一首の歌番号です)

の六人ですが、紀貫之自身はこの六人を「六歌仙」とは呼んでいません。
 「歌仙」とは、もともと仮名序で柿本人麻呂と山部赤人の二人に限って使われていて、「六歌仙」という名称は後世になってからの名称です。
 紀貫之はこれら六人の歌人を選んだ理由として、身分の高い公卿を除いて、当時においてすでに歌人として名が知られている人たちを選んだとしています。
 ですから、六歌仙の中には女性や僧侶も含まれていますが、歌人としても様々で、各人の歌風に共通性などがある訳でもありません。
 また、身分の高い人たちを対象にしなかったことについては、「官位高き人をば、容易きようなれば入れず」として、敢えて評価をしなかったようです。
 ところで、六歌仙についての仮名序における紀貫之の評価は、決して芳しいものでないのですが、これは柿本人麻呂と山部赤人の歌仙を念頭に置いたもので、この二人には遠く及ばないとしているようです。
 しかし、これら六歌仙以外の人たちの評価は更に厳しく、「歌とのみ思ひて、その様知らぬなるべし」として、全く取り上げようともしていないので、逆説的な言い方ですが、六歌仙について評価をしていると言えます。
 参考に、下に「古今和歌集・仮名序」において六歌仙について書かれている部分を紹介しておきますが、いずれにしても、これら六歌仙と呼ばれる人たちの和歌は素晴らしく、百人一首などによっても、身近に親しまれているのではないでしょうか。

「古今和歌集・仮名序」
ここに、古のことをも、歌の心をも知れる人、僅かにひとりふたり也き。然あれど、これかれ、得たる所、得ぬ所、互いになんある。
彼の御時よりこの方、年は百年あまり、世は十継になんなりにける。古の事をも歌をも、知れる人よむ人、多からず。今この事を言うに、官位高き人をば、容易きようなれば入れず。

その他に、近き世にその名聞こえたる人は、すなわち、僧正遍照は、歌のさまは得たれども、誠すくなし。例えば、絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。

在原業平は、その心余りて言葉足らず。萎める花の、色無くて臭い残れるがごとし。

文屋康秀は、言葉は巧みにて、そのさま身におわず。言わば、商人のよき衣きたらんがごとし。

宇治山の僧喜撰は、言葉かすかにして、初め終りたしかならず。言わば、秋の月を見るに、暁の雲にあえるがごとし。

小野小町は、古の衣通姫の流なり。哀れなるようにて、強からず。言わば、良き女の悩める所あるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。

大伴黒主は、そのさまいやし。言わば、薪負える山人の、花のかげに休めるがごとし。

この他の人々、その名聞こゆる、野辺に生うる葛の、這ひ広ごり、林に繁き木の葉の如くに多かれど、歌とのみ思ひて、その様知らぬなるべし。
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フーリア美術館逍遥 [フーリア美術館]

フーリア美術館逍遥(その一)


FS-6750_03[2].jpg

The fisherman Hakuryo and Mount Fuji
Type
Hanging scroll
Maker(s)
Artist: Hishikawa Sōri 菱川宗理
Historical period(s)
Edo period, 1770-1820
Medium
Color on paper
Dimension(s)
H x W (image): 86.3 × 28.1 cm (34 × 11 1/16 in)
Geography
Japan
Credit Line
Gift of Charles Lang Freer
Collection
Freer Gallery of Art
Accession Number
F1900.58
Label
Sori's range of subjects, like Hokusai's, was broader than most artists of ukiyo-e. His work included classical literary subjects, such as Six Immortal Poets, and sympathetic renderings of humble peasants, like this fisherman posed in strict profile with the sacred Mount Fuji silhouetted in the background. The colored feather cloak worn by the fisherman alludes to a Japanese legend about the fisherman Hakuryo, who encounters a beautiful spirit near Mount Fuji. Startled by his humble appearance, she flees, leaving behind her feathered cloak (hagoromo). The story became the subject of a famous Noh play.
Provenance
Former owner
Bunshichi Kobayashi 小林文七 (C.L. Freer source) (circa 1861 - 1923)
Edward S. Hull Jr.
Charles Lang Freer (1854-1919)
On View Location
Currently not on view
Classification(s)
Painting
Keyword(s)
Edo period (1615 - 1868), fisherman, Japan, kakemono, ukiyo-e
Collection(s) Area
Japanese Art
Web Resource(s)
Google Cultural Institute


Rights Statement
Copyright with museum
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習静堂の艶(やさ)隠者(光琳と乾山) [光琳と乾山]

その二十六の二 乾山の「四季花鳥図屏風」(その二)

㈢ そして、乾山については、「習静堂の艶(やさ)隠者」(『小林太市郎著作集六・日本芸術論Ⅱ・光琳と乾山』所収)との指摘もなされている。

艶隠者.jpg

『扶桑近代艶(やさ)隠者(第三巻)』(西鷺軒橋泉 [作] ; 西鶴 [序・画])所収「嵯峨の風流男(やさおとこ)」

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he13/he13_03265/he13_03265_0003/he13_03265_0003.html

上記の西鶴の「嵯峨の風流男(やさおとこ)」は、乾山をモデルにしていて、若くして隠遁者(隠者)として、俗世間との縁を断ち切る生活に入るが、それは、一見、「ストイック」(禁欲的に自己を律する姿勢)的に見られるが、その本質は、それに甘んじている、一種の「エピキュリアン」(享楽主義者)的な面が濃厚であるというのである。
 それを図解した挿絵が、上記のもので、左側の女性に囲まれて遊興三昧の男が、光琳をモデルした男、それを見ていて、その中には足を踏み入れない右側の人物が乾山をモデルにしている「嵯峨の風流男(やさおとこ)」、すなわち、「艶(やさ)隠者」乾山、その人という見方である。

㈣ しかし、これは、『小林太市郎著作集六・日本芸術論Ⅱ・光琳と乾山』での、一つの問題提示的な見方であって、冒頭の「四季花鳥図屏風」は、その「霊海」(乾山の禅号)などからして、「艶(やさ)隠者」という世界のものではなく、「黄檗宗の修業僧・(霊海)乾山」の世界のものということについては、下記のアドレスなどで触れて来た。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-13

㈤ さらに、乾山の最期についての、今に、「乾山一世・尾形乾山」、そして、「光琳二世・尾形乾山」の名をとどめているのに比して、全くの、下記のアドレスで紹介した、「乾山の縁故者は皆無であった」ということは、壮絶な、「黄檗宗の修業僧・(霊海)乾山」の最期であったことは、特記をして置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-16

(再掲)
 乾山の最期については、いずれの年譜関係も、「寛保三年(一七四三)六月二日、乾山没(享年八十一)」程度で、詳しいことは分からない。これらの年譜の基になっているのは、次の寛永寺の坊官日記の「上野奥御用人中寛保度御日記」(寛保三年六月二日の項)に因っている。
【 乾山深省事先頃より相煩ひ候処 養生相叶はず今朝(六月二日)死亡の旨 進藤周防守方へ兼而心安く致候に付 深省懇意の医師罷越物語申候 無縁の者にて 取仕廻等の儀仕遣はし候者もこれ無く 深省まかり在候 地主次郎兵衛と申者世話致し遣はし候得共 軽きものにつき難儀いたし候由 就而者何卒取仕廻まかりなり候程の 御了簡なされ遣され下され候様に仕つり度由 周防守より左衛門へ申聞候に付 坊官中迄申入候処 何れも相談これあり 御先代御不便にも思召候者の儀不便の事にも候間 仕廻ひ入用金一両下され然るべく候無縁の者の儀に候間 幸ひ周防守世話これあり候につき 周防守より次郎兵衛へ右之段申聞く 尤も吃度御上より下され候とこれ無く、役人中了簡をもつて下され候間 相応に取仕廻ひ遣はし候様に申聞様 周防守へ坊官中申聞られ 金子相渡し 深省事当地に寺もこれ無く候につき 坂本善養寺へ相頼み葬り候由 無縁の者の儀不便の事に候間 右の趣き善養寺へ申談じ 過去帳に記置 同忘年忌回向致し遣はし候様申聞 金一両相渡し是にて右回向これ有る様に取計ひ遺し候様申達し、然るべく旨何れも申談じ 当善養寺は左衛門懇意につきも同人方より申遣し然べく旨申入置候  】
(『乾山 都わすれの記(住友慎一著)』・『尾形乾山第三巻研究研究編(リチャード・ウィルソン、小笠原左江子著)』)
(注など)
1 進藤周防守は、輪王寺宮の側近で、乾山とは知己の間柄のように解せられる。しかし、
乾山がお相手役を仰せつかっていた、輪王寺宮・公寛親王は、元文三年(一七三八)に四十三歳亡くなっており、乾山が没した寛保三年(一七四三)の頃には、輪王寺との関係は疎遠になっていたのであろう。
2 光琳・乾山の江戸での支援者であった深川の材木商・冬木家の当主・冬木都高も、公寛親王と同じ年(元文三年)に亡くなっており、冬木家との関係も、これまた疎遠になっていたのであろう。
3 上記の「深省懇意の医師」というのは、光琳三世を継ぐ「立林何帛」(前加賀藩医官・白井宗謙)のようにも思われるが、その医師が「何帛」としても、乾山の葬儀を取り仕切るような関係でなかったようにも思われる(何帛が乾山より「光琳模写宗達の扇面図」を贈られたのも元文三年で、乾山が没する頃は、やはり交誼は希薄になっていたのかも知れない)。
4 冬木家の関係で交遊関係が出来た、筑島屋(坂本米舟)や俳人・長谷川馬光との関係も、元文二年(一七三七)二月から翌年の三月までの一年有余の、佐野の長逗留などで、やはり、乾山が没する頃は、その交遊関係の密度は以前よりは希薄になっていたのかも知れない。
5 その上で、上記の晩年の乾山を看取った「地主次郎兵衛」というのは、寛永寺近くの、乾山の入谷窯のあった、その「地主・次郎兵衛」で、乾山亡き後、江戸の「二代・乾山」を襲名することとなる、その人と解したい。そして、この「次郎兵衛」は、乾山の佐野逗留時代の鋳物奉行・大川顕道(号・川声)などと交誼のある、天明鋳物型造り師の「次郎兵衛」その人なのかも知れない(『乾山 都わすれの記(住友慎一著)』)。
6 いずれにしろ、乾山が、寛保三年(一七四三)、六月二日(光琳の命日)に、その八十一年の生涯を閉じた時には、その六十九年の生涯を送った「京都時代」、そして、それ以降の、「光琳二世・絵師且つ乾山一世・陶工、尾形深省(乾山)」十二年の「江戸・佐野時代」を通して、その最期を看取ったものは、上記の、寛永寺の坊官日記の「上野奥御用人中寛保度御日記」の通り、乾山の縁故者は皆無で、乾山が開窯した「入谷窯」(「地主次郎兵衛」他)関係者などのみの寂しいものであったのであろう。

㈥ さらに、この、冒頭の「四季花鳥図屏風」の題名は、『小林太市郎著作集六・日本芸術論Ⅱ・光琳と乾山』での「楓柳芦屏風」の方が、より主題がはっきりしている。その理由は、ここに出て来る「鳥」は、「白鷺」のみで、その「草花」も、「春」から「秋」にかけての、「夏」の草花が主題という趣きで、「四季花鳥図」という題名はそぐわない面もある。
 まず「右隻」の「柳」(春)の下には、「菖蒲」(五月)、そして、「沢瀉・芙蓉」(六・七月)、「末摘花」(六月)、そして、「左隻」に行き、「花桔梗・うきぐさ・真菰・萩・すすき」(七月)、紅葉(八・九月)で、いわゆる「琳派」が画題とする「四季(「春・夏・秋・冬」または「一月~十二月」)花鳥図」とは趣を異にしているのである。

㈦ その上で、「右隻」の「柳」(春)に対する「左隻」の紅葉する「楓」周辺の白鷺は、もう既に鬼籍に入っている、乾山の「父・母」、そして、「二人の兄(長男と次男・光琳)」と「四人の妹」たちと解することも可能であろう。そして、この紅葉する楓は、死期を悟った乾山その人ということになろう。そして、この六曲一双の「十二画面(扇)」の「絵巻物」と解すると、この「紅葉する楓」の、最終章(「左隻」の「第六扇(面)」)の「芦」は、雪を被った枯れ芦の光景のようで、それは、下記のアドレスに出て来る「たち残す 錦いくむら 秋萩の 花におくある 宮きのゝ原」(三条西実隆)の、その「宮城野ゝ原」ということになろう。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-16

(再掲)

この「花におくある」というのは、咲き始める「春の花」でなく、咲き終わる「秋の花(秋の花野)」の、その「花のおく(奥)ある)」、「花野の、その先に」、それが、上記の、生まれ故郷の京の都から遠く離れた東国の「宮きのゝ原」(宮城野原)、そして、その「奥」は、すなわち、「黄泉(よみ)の国」という暗示なのであろう。

㈧ このように解してくると、この「左隻」の「第一扇(面)~第三扇(面)」の「蛇籠」 周辺の光景は、下記のアドレスで紹介した、「武蔵野隅田川図乱箱」の、その「武蔵野」と「隅田川」の光景となって来る。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-02

(再掲)

【 箱の内側には桐材の素地に直接「蛇籠に千鳥図」を描き、裏面に「薄図」を描いている。「薄図」に「華洛紫翠深省八十一歳画」という落款があるので、乾山が没する寛保三年(一七四三)の作とわかる。図様にいずれも宗達が金銀泥下絵で試みて以来この流派の愛好した意匠だが、乾山はそれを様式化した線で図案風に描いた。図案風といっても、墨と金泥と緑青の入り乱れた薄の葉の間に、白と赤の尾花が散見する「薄図」は、老乾山の堂々とした落款をことほぐとともに、来世を待つ老乾山の夢を象徴して美しく寂しく揺れている。乾山の霊魂は「蛇籠に千鳥図」の千鳥のように、現世の荒波から身をさけて、はるか彼岸へ飛んでゆくのであろう。この図はそのような想像を抱かせるだけのものをもっている。 】(『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説117・118」) 

㈨ そして、この「武蔵野隅田川図乱箱」の「蛇籠」に続く、「左隻」の「紅葉する楓」(乾山)は、乾山の最期の地の、「乾山深省事先頃より相煩ひ候処 養生相叶はず今朝(六月二日)死亡の旨 進藤周防守方へ兼而心安く致候に付 深省懇意の医師罷越物語申候 無縁の者にて」(「上野奥御用人中寛保度御日記」)の、その上野寛永寺付近の入谷窯周辺の光景と解したいのである。その「無縁の者」のままに亡くなった乾山のもとに、京都の一代の栄光を浴した「雁金屋」の、皆、黄泉の国にいる同胞が、その黄泉の国へと誘うように解したいのである。

㈩ 最後に、光琳の百回忌を営み、光琳展図録ともいうべき『光琳百図』を刊行し、続いて、『乾山遺墨』をも刊行した、「江戸琳派」の創設者の酒井抱一の、その『乾山遺墨』の「跋文」を掲載して置きたい。

 余緒方流の画を学ふ事久しと雖更其
 意を得す光琳乾山一双の名家にして
 世に知る處なりある年洛の妙顕寺 
 中本行院に光琳の墓有るを聞其跡
 を尋るに墓石倒虧(キ)予いさゝか作をこし
 て題字をなし其しるし迄に建其
 頃乾山の墓碑をも尋るに其處を知
 ものなし年を重京師の人に問と雖
 さらにしらす此年十月不計して古筆
 了伴か茶席に招れて其話を聞く
 深省か墳墓予棲草菴のかたわら叡麓
 の善養寺に有とゆふ日を侍すして行見
 にそのことの如し塵を拂水をそゝき香
 花をなし禮拝して草菴に帰その
 遺墨を写しし置るを文庫のうちより
 撰出して一小冊となし緒方流の餘光
 をあらはし追福の心をなさんとす干時
 文政六年発未十月乾山歳八十一没
 てより此年又八十有一年なるも
 又奇なり
    於叡麓雨華葊抱一採筆
(『乾山 琳派からモダンまで(求龍堂刊)』所収「乾山と琳派―抱一が『乾山遺墨』に込めるもの―(岡野智子稿)」)

江戸博本『乾山遺墨』跋文翻刻

翻刻は『酒井抱一 江戸情緒の精華』(大和文華館 二〇一四)所収の宮崎もも氏翻刻(国立国会図書館本)を参照しつつ行った。

広重の世界(五) [広重]

(その五)広重のスケッチ集(駿河三保之松原)

三保の松原.jpg

Album: Miscellaneous Sketches → 駿河 三保(三保之松原)
Maker(s) Artist: Utagawa Hiroshige 歌川広重 (1797-1858)
Historical period(s) Edo period, Mid-eighteenth century
School Ukiyo-e School
Medium Ink and color on paper → 紙本着色
Dimensions H x W x D (overall, album closed): 27.8 x 16.8 x 3.8 cm (10 15/16 x 6 5/8 x 1 1/2 in)

(参考)

三保の松原一.jpg

冨士三十六景「駿河三保之松原(するがみほのまつばら)」(山梨県立博物館蔵)

www.museum.pref.yamanashi.jp/4th_fujisan/03fuji/4th_fujisan_03fuji_24.htm

歌枕でもある景勝地三保の松原を雅やかな風情で描いている。三保の松原は古くから、左手の高台に清見寺、左奥に富士、右から松原の先端が伸びてくる構図で多く描かれたが、広重はさらに松原に近づき、ひときわ富士を大きくとらえている。縦長の画面に中景から遠景を重ねた俯瞰構図で、奥行きと広がりを出している。
※三保松原(静岡県静岡市清水区)
駿河湾に突き出した砂州である三保松原(三保浦)には羽衣伝説が伝わり、古代から歌枕として詠まれ、富士の景勝地として有名であった。対岸には清水湊があるため、船の出入りが描かれている。その背後の山は薩■(土へんに垂)山。

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広重の世界(四) [広重]

(その四)広重のスケッチ集(下総堀江猫実)

堀江猫実.jpg

Album: Miscellaneous Sketches → 下総 堀江猫実(ねこざね)
Maker(s) Artist: Utagawa Hiroshige 歌川広重 (1797-1858)
Historical period(s) Edo period, Mid-eighteenth century
School Ukiyo-e School
Medium Ink and color on paper → 紙本着色
Dimensions H x W x D (overall, album closed): 27.8 x 16.8 x 3.8 cm (10 15/16 x 6 5/8 x 1 1/2 in)

(メモ)

堀江猫実二.jpg

歌川広重(初代)歌川広重(うたがわひろしげ) 安政3年(1856)/縦36cm×横25cm
船橋市図書館蔵 → 名所江戸百景 堀江ねこざね

https://www.lib.city.funabashi.chiba.jp/fukeiga8.html

下総最西端の堀江・猫実(浦安市)の海辺の情景。中央の川は境川、右側林の中に見えるのは猫実の神明社(現豊受神社)。砂浜の鳥は大膳(だいぜん)という千鳥の一種。それを千鳥無双網と称する網で捕ろうとしている。堀江・猫実は太日川(後に利根川~江戸川と改称)の三角州に成立した集落で、昭和中期までは漁業を主とし、一部で水田農業等も行うという、デルタに続く地域であった。この周辺の風景が一変するのは、昭和44年の東西線の開通後で、現在では画の面影は全くない。


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