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「水鶏啼と(歌仙)」(元禄七年五月二十五日『笈日記(支考撰)』) [江戸の俳諧]

「水鶏啼と(歌仙)」(元禄七年五月二十五日『笈日記(支考撰)』)

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初表
   隠士山田氏の亭にとどめられて
 水鶏啼(なく)と人のいへばや佐屋泊 芭蕉(「水鶏」で夏、鳥類、水辺。「人」は人倫)
   苗の雫を舟になげ込(こむ)      露川(「苗」で夏。「舟」は水辺)
 朝風にむかふ合羽(かつぱ)を吹たてて   素覧(無季。「合羽」は衣裳)
   追手(おふて)のうちへ走る生もの   芭蕉(無季)
 さかやきに暖簾せりあふ月の秋  露川(「月の秋」で秋、夜分、天象)
   崩(くづれ)てわたる椋鳥の声     素覧(「椋鳥」で秋、鳥類)
初裏
 耕作の事をよくしる初あらし   芭蕉(「初あらし」で秋)
   豆腐あぢなき信濃海道    露川(無季。旅体)
 尻敷の縁(ヘリ)とりござも敷やぶり   素覧(無季)
   雨の降(ふる)日をかきつけにけり  芭蕉(無季。「雨」は降物)
 焙烙のもちにくるしむ蠅の足   露川(「蠅」で夏、虫類。)
   藺(ゐ)を刈あげて門にひろぐる  素覧(「藺を刈」で夏)
 切麦であちらこちらへ呼れあふ  芭蕉(「切麦」で夏)
   お旅の宮のあさき宵月    露川(「宵月」で秋、夜分、天象。神祇)
 うそ寒き言葉の釘に待ぼうけ   素覧(「うそ寒」で秋。恋)
   袖にかなぐる前髪の露    芭蕉(「露」で秋、降物。「袖」は衣裳。恋)
 咲花に二腰はさむ無足人     露川(「咲花」で春、植物、木類。「無足人」は人倫)
   打ひらいたるげんげしま畑  素覧(「げんげ」で春、植物、草類)
二表
 山霞鉢の脚場を見おろして    支考(「山霞」で春、聳物、山類)
   船の自由は半日に行(ゆく)     左次(無季。「船」は水辺)
 月夜にて物事しよき盆の際(きは)    巴丈(「月夜」で秋、夜分、天象)
   かりもり時の瓜を漬込(つけこ    露川(「瓜」で秋)
 三鉦(みつがね)の念仏にうつる秋の風  素覧(「秋の風」で秋。釈教)
   使をよせて門にたたずむ   支考(無季。「使」は人倫)
 我恋は逢て笠とる山もなし    左次(無季。恋)
   年越の夜の殊にうたた寐   巴丈(「年越」で冬。恋。「夜」は夜分)
 扨(さて)は下戸いちこのやうに成にけり 露川(無季。「いちこ」は人倫)
   達者自慢の先に立れて    素覧(無季)
 金剛が一世の時の花盛      支考(「花盛」で春、花、植物、木類)
   つつじに木瓜の照わたる影  左次(「つつじに木瓜」で春、植物、木類)
二裏
 春の野のやたらに広き白河原    巴丈(「春の野」で春)
   三俵つけて馬の鈴音      露川(無季。「馬」は獣類)
 それぞれに男女も置そろへ     素覧(無季。恋。「男女」は人倫)
   よめらぬ先に娘参宮      支考(無季。恋。神祇)
 あり明に百度もかはる秋の空    左次(「あり明」で秋、夜分、天象。神祇)
   畳もにほふ棚の松茸      巴丈(「松茸」で秋。「畳」は居所)

『ゆづり物(杜旭自筆・元禄八年成)』の句形(参考)

二表(2)
 一度は暮して見たき山がすみ    支考
   ふねの自由は半日にゆく    左次
 月夜にて物事しよき盆の前     巴丈
   かりもり時の瓜を漬込     露川
 三鉦の念仏にうつる秋の風     素覧
   小者をやりて門にたたずむ   支考
 我恋は逢うて笠取ル山もなし    左次
   貧はつらきよ〇〇假寐     巴丈
 酒塩に酔ふた心も面白や      露川
   一里や二里の路は朝の間    素覧
 伊勢に居て芝居をしらぬ花盛    支考
   つつじの時はなを長閑也    左次
二裏(2)
 春の野のやたらに広キ白河原    巴丈
   から身で馬はしやんしやんと行 露川
 板葺のゆたかに見ゆるお蔵入    素覧
   山ちかふして薪沢山      支考

 参考;『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)

(『笈日記(支考撰)・上巻・「伊賀群」』

紀 行
 さや(佐屋)の舟まはりしに、有明の月入はてゝ、みのぢ、あふみ路の山々雪降かゝりていとお(を)かしきに、おそろしく髭生たるものゝふの下部などいふものゝ、やゝもすれば折々舟人をねめいかるぞ、興うしなふ心地せらる。桑名より処々馬に乗て、杖つき坂引のぼすとて、荷鞍うちかへりて、馬より落ぬ。ものゝ便なきひとり旅さへあるを、「まさなの乗てや」と、馬子にはしかられながら、

   かちならば杖つき坂を落馬哉

といひけれども、季の言葉なし。雑の句といはんもあしからじ。
                             ばせを
そのゝちいがの人々に此句の脇してみるべきよし申されしを

(『笈日記(支考撰)・下巻・「雲水追善」』)

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00032010#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-2923%2C-260%2C12437%2C5191

雲水追善一.jpg

雲水追善二.jpg

雲水追善
 悼芭蕉翁   尾州熱田 連中
その神な月の二日、しばしとゞめず、今のむかしはかはりぬ。何事もかくとわきまへかぬるなみだ思へばくやし。芭蕉翁、十とせあまりも過ぬらん、いまぞかりし比(ころ)、はじめて此蓬莱宮におはして、「此海に草鞋を捨ん笠時雨」と心をとゞめ、景清が屋しきもちかき桐葉子がもとに、頭陀をおろし給ふより、此道のひじり(聖)とはたのみつれ。木枯の格子あけては、「馬をさへ詠る雪」といひ、やみに舟をうかべて浪の音をなぐさむれば、「海暮て鴨の声ほのかに白し」とのべ、白鳥山に腰をおしてのぼれば、「何やらゆかしすみれ草」となし、松風の里・寝覚の里・かゞ見山・よびつぎ(呼続)の浜・星崎の妙句をかぞへ、終にかたみとなし給ぬと、互に見やり泪の内に、人々一句をのべて、西のそらを拝すのみ。(『日本俳書体系3芭蕉時代三・蕉門俳諧後集』所収「笈日記(上・中・下:支考撰)」)
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「日の春を(百韻)」(貞享三丙寅年正月) [江戸の俳諧]

「日の春を(百韻)」(貞享三丙寅年正月)

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初表
日の春をさすがに鶴の歩ミ哉  其角
『初懐紙評注』には、「元朝の日花やかにさし出て、長閑に幽玄なる気色を、鶴の歩にかけて云つらね侍る。祝言外に顕る。流石にといふ手には感多し。」
季語は「春」で春、天象。「鶴」は鳥類。
  
砌(みぎり)に高き去年の桐の実 文鱗
『初懐紙評注』には、「貞徳老人の云。脇体四道ありと立られ侍れども、当時は古く成て、景気を言添たる宜とす。梧桐遠く立てしかもこがらしままにして、枯たる実の梢に残りたる気色、詞こまやかに桐の実といふは桐の木といはんも同じ事ながら、元朝に木末は冬めきて木枯の其ままなれども、ほのかに霞、朝日にほひ出て、うるはしく見え侍る体なるべし。但桐の実見付たる、新敷俳諧の本意かかる所に侍る。」
季語は「去年」で春。「桐」は植物、木類。

 雪村が柳見にゆく棹さして   枳風
『初懐紙評注』には、「第三の体、長高く風流に句を作り侍る。発句の景と少し替りめあり。柳見に行くとあれば、未景不対也。雪村は画の名筆也。柳を書べき時節、その柳を見て書んと自舟に棹さして出たる狂者の体、珍重也。桐の木立詠やう奇特に侍る。付やう大切也。」
季語は「柳」で春、植物、木類。「棹さして」は水辺。

  酒の幌(トバリ)に入(いり)あひの月 コ斎
『初懐紙評注』には、「四句目なれば軽し。其道の様体、酒屋といつもの能出し侍る。幌は暖簾など言ん為也。尤夕の景色有べし。」
季語は「月」は秋で秋、夜分、天象。

 秋の山手束(タツカ)の弓の鳥売(うら)ん 芳重
『初懐紙評注』には、「狩の鳥を得て市に持出て売体さも有べし酒屋に便りたる珍重の付様也。手束の弓は短き弓也。」
季語は「秋」で秋。「山」は山類。「鳥」は鳥類。
「手束(たつか)の弓」=「手に握り持つ弓。たつかの弓。」「―手に取り持ちて朝狩(あさがり)に君は立たしぬ棚倉(たなくら)の野に」〈万・四二五七〉

  炭竃こねて冬のこしらへ   杉風
『初懐紙評注』には、「前句ともに山家の体に見なして付侍る。猟師は鳥を狩、山賤は炭竃を拵て冬を待体、別条なき句といへども炭竃の句作、終に人のせぬ所を見付たる新敷句也。」
季語は「冬のこしらへ」で秋。

里々の麦ほのかなるむら緑   仙花
『初懐紙評注』には、「付やう別条なし。炭竃の句を初冬の末霜月頃抔の体に請て、冬畑の有様能言述侍る。その場也。」
季語は「麦ほのか」で冬、植物、草類。「里々」は居所。

  我のる駒に雨おほひせよ   李下
『初懐紙評注』には、「是等奇意也。何を付たるともなく、何を詠めたるともなし。里々の麦と言より旅体を言出し、むら緑などうるはしきより雨を催し侍る景色、弁口筆頭に不掛。」
無季。「我」は人倫。「駒」は獣類。

初裏
 朝まだき三嶋を拝む道なれば  挙白
『初懐紙評注』には、「是さしたる事なくて、作者の心に深く思ひこめたる成べし。尤旅体也。箱根前にせまりて雨を侘たる心。深切に侍る。」
無季。神祇。

  念仏にくるふ僧いづくより  朱絃
『初懐紙評注』には、「此句、僅に興をあらはしたる迄也。神社には仏者を忌む物也。参詣の僧も神前には狂僧也。三嶋は町中に有社なれば、道通りの僧もよるべきか。」
無季。釈教。

 あさましく連歌の興をさます覧 蚊足
『初懐紙評注』には、「連歌の興をさます、付やう珍し。度々我人の上にもある事にて、一入珍重に侍る。」
無季。

  敵(かたき)よせ来るむら松の声 ちり
『初懐紙評注』には、「聞えたる通別意なし。連歌に軍場を思ひ寄せたるなり。」
無季。「敵」は人倫。「むら松」は植物、木類。

 有明の梨打烏帽子着たりける  芭蕉
『初懐紙評注』には、「付様別条なし。前句軍の噂にして、又一句さらに云立たり。軍に梨子打ゑぼしとあしらいたる付やう軽くてよし。一句の姿、道具、眼を付て見るべし。」
季語は「有明」で秋、夜分、天象。「梨子打ゑぼし」は衣装。

  うき世の露を宴の見おさめ  筆
『初懐紙評注』には、「前句を禁中にして付たる也。ゑぼしを着るといふにて、却て世を捨てるといふ心を儲たり。観相なり。」
季語は「露」で秋、降物。

 にくまれし宿の木槿(むくげ)の散たびに 文鱗
『初懐紙評注』には、「宴は只酒もりといふ心なれば、世のあぢきなきより、恋の句をおもひ儲たり。木槿のはかなくしほるるごとく、我が身のおもひしほるといふより、にくまれしと五文字置なり。恋の句作尤感情あり。」
季語は「木槿」で秋、植物、木類。「宿」は居所。

  後(のち)住む女きぬたうちうち    其角
『初懐紙評注』には、「後住女は後添の妻といはん為也。にくまれしといふにて後添えの物と和せざる味を籠めたり。砧打々と重たるにて、千万の物思ひするやうに聞え侍る。愁思ある心にて、前句をのせたる也。翫味浅からず。」
季語は「きぬた」で秋。「女」は人倫。

 山ふかみ乳をのむ猿の声悲し  コ斎
『初懐紙評注』には、「砧は里水辺浜浦等に多くよみ侍る。尤姥捨更科吉野など山類にも読侍れば、砧を山類にてあしらひたる也。乳を呑猿と云にて、女といふ字をあしらひたる也。幽かなる意味、しかもよく通じたり。」
無季。「山ふかみ」は山類。「猿」は獣類。

  命を甲斐の筏ともみよ    枳風
『初懐紙評注』には、「猿の声悲しきより、山川のはげしく冷敷体形容したる付やう。尤山類をあしらひたる也。」
無季。「筏」は水辺。

 法(のり)の土我剃リ髪を埋ミ置(おか)ん 杉風
『初懐紙評注』には、「筏のあやうく物冷じきを見て、身の無常を観じたる也。甲斐と云は、古人仏者の古跡等多く、自然に無常も思ひよりたれば也。剃髪埋み置作為、新敷哀をこめ侍る。」
無季。釈教。

  はづかしの記をとづる草の戸 芳重
『初懐紙評注』には、「別意なし。草庵隠者の体也。さもあるべき風流なり。」
無季。「草の戸」は居所。

 さく日より車かぞゆる花の陰  李下
『初懐紙評注』には、「前句、隠者の体を断たる也。尤官禄を辞して、かくれ住人のいかめしき花見車を日々にかぞへて居る体也。只句毎に句作のやわらかにめづらしきに目を留むべし。」
季語は「花」で春、植物、木類。

  橋は小雨をもゆるかげろふ  仙花
『初懐紙評注』には、「春の景気也。季の遣ひ様、かろくやすらか成所を見るべし。花の閉目杯は、易々と軽く付るもの也。」
季語は「かげろふ」で春。「橋」は水辺。「小雨」は降物。

ニ表
 残る雪のこる案山子のめづらしく 朱絃
『初懐紙評注』には、「是又春の気色也。付やうさせる事なし。野辺田畑のあたり、残雪にやぶれたる案山子立たる姿哀也。景気を見付たる也。秋のもの冬こめて春迄残たるに、薄雪のかかりたる体、尤感情なるべし。」
季語は「残る雪」で春。

  しづかに酔(よう)て蝶をとる歌 挙白
『初懐紙評注』には、「句作の工なるを興じて出せる句也。蝶をとるとる歌て酔に興じたる体、誠に面白し。」
季語は「蝶」で春、虫類。

 殿守がねぶたがりつるあさぼらけ ちり
『初懐紙評注』には、「此句、附所少シ骨を折たる句也。前句に蝶を現在にしたる句にあらず。蝶をとるとる歌といふを、諷物にして付たる也。殿守は禁中の下官の者也。蝶取歌と云ふ風流より、禁裏に思ひなして、夜すがら夜明し興ありて、殿守等があけて、猶ねぶたげに見ゆる体也。」
無季。「殿守」は人倫。
「殿守」=「(「主殿署」と書く)律令制で、春宮とうぐう坊に置かれた役所。東宮の湯浴み・灯火・掃除などのことをつかさどった。とのもりつかさ。みこのみやのとのもりつかさ。しゅでんしょ。」

   はげたる眉をかくすきぬぎぬ 芭蕉
『初懐紙評注』には、「朝ぼらけといふより、きぬぎぬ常の事なり。はげたる眉といふは寝過して、しどけなき体也。伊勢物語に夙に殿守づかさの見るになどいへるも、此句の余情ならん。」
無季。恋。

 罌子咲(さき)て情(なさけ)に見ゆる宿なれや 枳風
『初懐紙評注』には、「はげたる眉といへば老長がる人のおとろへて、賤の屋杯にひそかに住る体也。罌子は哀なるものにて、上ツ方の庭には稀也。爰に取出して句を飾侍る。是等の句にて植物草花のあしらひ、所々に分別有べきなり。」
季語は「罌子」で夏、植物、草類。「宿」は居所。

   はわけの風よ矢箆切(ヤノキリ)に入(いる)コ斎
『初懐紙評注』には、「矢箆切といふ言葉先新し。前句民家にして武士の若者共、與風珍敷物かげなど見付たる体也。大形は物語などの体をやつしたる句也。或は中将なる人の鷹すへて小野に入、うき舟を見付たるなどのためし成ん。されども其故事をいふにはあらず。其余情のこもり侍るを意味と申べきか。」
無季。
「矢箆切(やのきり)」=矢の棒の部分である矢箆(やの)を切ることをいう。矢箆(やの)は矢柄(やがら)、矢箆竹(やのちく)ともいう。

 かかれとて下手のかけたる狐わな 其角
『初懐紙評注』には、「藪かげの有様ありありと見え侍る。しかも句作風情をぬきて、只ありのままに云捨たる句続き心を付べし。」
無季。

   あられ月夜のくもる傘    文鱗
『初懐紙評注』には、「冬の夜の寒さ深き体云のべ侍る。傘に霰ふる音いと興あり。然も月さへざへと見ゆる尤面白し。狐わなといふに、細に付侍るはわろし。」
季語は「あられ」で冬、降物。「月夜」は夜分、天象。

 石の戸樋(とひ)鞍馬の坊に音すみて 挙白
『初懐紙評注』には、「霰は雪霜といふより、少し寒風冷じく聞ゆる物なるによりて、鞍馬と云所を思ひよせたり。昔は名所の出し様、碪に須磨の浦十市の里吉野の里玉川など付て、證歌に便て付る。霰は那須の篠原、雪に不二、月に更科と付侍るを、当時は句の形容によりて名所を思ひよする。尤心得ある事也。」
無季。「鞍馬」は名所。「坊」は居所。

   われ三代の刀うつ鍛冶    李下
『初懐紙評注』には、「此句詠様奇特也。鞍馬尤人々の云伝て、僧正が谷抔打ものに便る事也。石の戸樋などいふに鍛冶、近頃遠く思ひ寄たる、珍重也。浄き地、清き水をゑらみ、名剣を打べきとおもひしより、一句感情不少。三代といふて猶粉骨鍛冶名人といはん為なり。」
無季。「鍛冶」は人倫。

 永禄は金(こがね)乏しく松の風  仙花
『初懐紙評注』には、「永禄は其時代を云はんため也。鍛冶名人多くは貧なるもの也。仍て金乏しといへる也。前句の噂のやうにて、一句しかも明らかに聞え侍る。是等よく心を付翫味すべし。」
無季。「松」は植物、木類。
永禄=戦国時代のさなかで、川中島の戦い、桶狭間の戦い、永禄の変などが起きている。刀鍛冶から合戦、永禄の頃という連想で展開している。

   近江の田植美濃に耻(はづ)らん 朱絃
『初懐紙評注』には、「只上代の体の句也。金乏しきといふより昔をいふ句也。昔は物毎簡略にて、金も乏しき事人々云伝へ侍る。美濃近江は都近き所にて、田植えなどの風流も、遠き夷とはちがふ成べし。」
季語は「田植」で夏。

 とく起て聞(きき)勝(カチ)にせん時鳥 芳重
『初懐紙評注』には、「時節を云合せたる句也。美濃近江と二所いふにて、郭公をあらそふ心持有て、とく起て聞勝にせんとは申侍る也。」
季語は「時鳥」で夏、鳥類。

   船に茶の湯の浦あはれ也   其角
『初懐紙評注』には、「時鳥、水辺川浦などにいふ事勿論也。船中にて茶の湯などしたる風流奇特也。思ひがけぬ所にて茶の湯出す。茶道の好士也。思ひよらぬ物を前句に思ひ寄たる、又俳諧の逸士也。」
無季。「船」「浦」は水辺。

二裏
 つくしまで人の娘をめしつれて  李下
『初懐紙評注』には、「此句趣向句作付所各具足せり。舟中に風流人の娘など盗て、茶の湯などさせたる作意、恋に新し。感味すべし。松浦が御息女をうばひ、或は飛鳥井の君などを盗取がる心ばへも、おのづからつくし人の粧ひに便りて、余情かぎりなし。」
無季。「人の娘」は人倫。

   弥勒の堂におもひうちふし  枳風
『初懐紙評注』には、「此句、尤やり句にて侍れども、辺土の哀をよく云捨たり。句々段々其理つまりたる時を見て、一句宜しく付捨らる逸句不労。」
無季。恋。釈教。

 待(まつ)かひの鐘は墜(オチ)たる草の上 はせを
『初懐紙評注』には、「弥勒の堂といふ時は、観音堂釈迦堂など云様に、参詣繁昌にも聞えず。物淋しき体を心に懸て、鐘の地に落て葎の中に埋れ、龍頭纔に見えたる体、見る心地せらる。五文字にて一句の味を付たり。注釈に及ばず。よくよく味ひ聞べし。」
無季。釈教。

   友よぶ蟾(ヒキ)の物うきの声    仙花
『初懐紙評注』には、「友呼蟾 ちか頃珍重に侍る。草むらの体、物すごき有様、前句に云残したる所を能請たり。うき声といふにて、待便りなき恋をあひしらひたり。」
季語は「蟾」で夏。

 雨さへぞいやしかりける鄙(ひな)ぐもり コ斎
『初懐紙評注』には、「蟾の声といふより田舎の体を云のべたる也。雨と付る事珍しからずといへども、ひなぐもり珍し。しかも秋に云言葉にあらず。古き歌によみ侍る。惣じて句々、折々古歌古詩等の言葉、所々にありといへども、しゐて名句にすがりたるにもあらず侍れば、さのみことごとしく不記。」
無季。「雨」は降物。

   門は魚ほす磯ぎはの寺    挙白
『初懐紙評注』には、「鄙の体あらは也。濱寺などの門前に、魚干網など打かけたる体多し。曇と云に干スと附たる、都て、作者の器量おもひよるべし。」
無季。釈教。「磯ぎは」は水辺。

 理不尽に物くふ武者等(ら)六七騎  芳重
『初懐紙評注』には、「此句秀逸也。海辺軍乱たる体也。民屋寺中へ押込て狼藉したる有様、乱国のさま誠にかく有べし。世の中おだやかに、安楽の心ばへ、難有思ひ合せて句を見るべし。」
無季。「武者」は人倫。

   あら野の牧の御召(ヲメシ)を撰ミに 其角
『初懐紙評注』には、「前句の勢よく替りたり。野馬とりに出立たる武士の体、尤面白し。三句のはなれ、句の替り様、句の新しき事、よく眼を止むべし。」
無季。

 鵙の一声夕日を月にあらためて  文鱗
『初懐紙評注』には、「段々附やう、文句きびしく続きたる故に、よく云ひなし侍る。かやうの所巧者の心可附義也。夕日さびしき鵙の一声と長嘯のよめるに、西行の柴の戸に入日の影を改めて、とよめる月をとり合せて一句を仕立たる也。長嘯のうたを、本歌に用ゆるにはあらず侍れども、俳諧は童子の語をもよろしきは、借用侍れば、何にても当るを幸に、句の余情に用る事先矩也。」
季語は「月」で秋、夜分、天象。「鵙」は鳥類。「夕日」も天象。

   糺(ただす)の飴屋秋さむきなり 李下
『初懐紙評注』には、「洛外の景気、尤やり句也。月夕日に其地を思ひはかりて見ゆ。」
季語は「秋さむき」で秋。「糺」は名所。

 電(いなづま)の木の間を花のこころせば 挙白
『初懐紙評注』には、「秋といふ字を不捨に付侍る。巧者の(秋以下十五文字一本によりて補ふ)働言語にのべがたし。糺あたりの道すがら森の木の間勿論也。木の間に稲妻尤面白し、真に秋の夜の花ともいふべし。」
季語は「電」で秋。「木の間」は植物、木類。

   つれなきひじり野に笈をとく 枳風
『初懐紙評注』には、「此句の付やう一句又秀逸也。物すごき闇の夜、稲妻ぴかぴかとする時節、聖、野に伏侘る体、ちか頃新し。俳諧の眼是等にとどまり侍らん。」
無季。釈教。旅体。

 人あまた年とる物をかつぎ行(ゆき)   揚水
『初懐紙評注』には、「此句又秀逸也。聖の宿かりかねたる夜を大晦日の夜におもひつけたる也。先珍重。聖は野に侘伏たるに、世にある人は年取物かつぎはこぶ体、近頃骨折也。前句の心を替る所、猶々玩味すべし。」
季語は「年とる物」で冬。「人」は人倫。

   さかもりいさむ金山(かなやま)がはら 朱絃
『初懐紙評注』には、「金山は我朝の大盗也。前句よく請たり。註に不及、附やう明也。」
無季。

三表
 此(この)国の武仙を名ある絵にかかせ  其角
無季。「武仙」は人倫。

   京に汲(くま)する醒井(さめかゐ)の水 コ斎
無季。「醒井」は名所。

 玉川やをのをの六ツの所みて   芭蕉
無季。「玉川」は名所、水辺。

   江湖(かうこ)江湖に年よりにけり   仙花
無季。「江湖」は水辺。

 卯花(うのはな)の皆精(シラゲ)にもよめるかな 芳重
季語は「卯の花」は夏、植物、木類。

   竹うごかせば雀かたよる   揚水
無季。「竹」は植物、木類での草類でもない。「雀」は鳥類。

 南むく葛屋の畑の霜消(きえ)て   不卜
季語は「霜」で冬、降物。

   親と碁をうつ昼のつれづれ  文鱗
無季。「親」は人倫。

 餅作る奈良の広葉を打合セ    枳風
無季。「奈良」は植物、木類。

   贅(ニエ)に買(かは)るる秋の心は はせを
季語は「秋」で秋。

 鹿の音を物いはぬ人も聞つらめ  朱絃
季語は「鹿の音」で秋、獣類。「人」は人倫。

   にくき男の鼾(いびき)すむ月  不卜
季語は「月」で秋、夜分、天象。恋。「にくき男」は人倫。

 苫(とま)の雨袂七里をぬらす覧(らん) 李下
無季。恋。「袂」は衣裳。「苫の雨」は降物。

   生駒河内の冬の川づら    揚水
季語は「冬」で冬。「生駒」は名所。「川づら」は水辺。

三裏
 水(みづ)車米つく音はあらしにて 其角
無季。「水車」は水辺。

   梅はさかりの院(ゐん)々を閉(とづ) 千春
季語は「梅」で春、植物、木類。

 二月(きさらぎ)の蓬莱人もすさめずや  コ斎
季語は「二月」で春。「人」は人倫。
蓬莱山=東の海にある神仙郷で、正月には米を山のように盛り、裏白やユズリハや乾物などを乗せた掛蓬莱を飾った。

   姉待(まつ)牛のおそき日の影    芳重
季語は「おそき日」で春。「姉」は人倫。「牛」は獣類。

 胸あはぬ越の縮(チヂミ)をおりかねて  芭蕉
無季。恋。
「越後縮(えちごちぢみ)」=「現在では新潟県南魚沼市、小千谷市を中心に生産される、平織の麻織物。古くは魚沼から頚城、古志の地域で広く作られていた。縮織のものは小千谷縮、越後縮と言う。」

   おもひあらはに菅(すげ)の刈さし  枳風
季語は「菅の刈」で夏、植物、草類。恋。

 菱のはをしがらみふせてたかべ嶋 文鱗
季語は「菱」で夏、植物、草類。「たかべ」は鳥類。
「たかべ(高部)」=「動物。ガンカモ科の鳥。コガモの別称」

   木魚きこゆる山陰(かげ)にしも   李下
無季。釈教。「山陰」は山類。

 囚(メシウド)をやがて休むる朝月夜   コ斎
季語は「朝月夜」は秋、天象。「囚」は人倫。

   萩さし出す長がつれあひ   不卜
季語は「萩」で秋、植物、草類。「長がつれあひ」は人倫。

 問(とひ)し時露と禿(かむろ)に名を付て 千春
季語は「露」で秋、降物。

   心なからん世は蝉のから   朱絃
季語は「蝉のから」で夏、虫類。

 三度(みたび)ふむよし野の桜芳野山 仙化
季語は「桜」で春、植物、木類。「吉野」は名所、山類。

   あるじは春か草の崩れ屋(や)  李下
季語は「春」で春。「草」は植物、草類。

名表
 傾城を忘れぬきのふけふことし  文鱗
無季。恋。

   経よみ習ふ声のうつくし   芳重
無季。釈教。

 竹深き笋(たかうな)折に駕籠かりて 挙白
季語は「笋」で夏で植物、木類でも草類でもない。

   梅まだ苦キ匂ひなりけり   コ斎
季語は「梅(の実)」で夏で植物、木類。

 村雨に石の灯(ともしび)ふき消ぬ 峡水
無季。「村雨」は降物。「石の灯」は夜分。

   鮑(あはび)とる夜の沖も静に 仙化
無季。「鮑」「沖」は水辺。「夜」は夜分。

 伊勢を乗ル月に朝日の有がたき  不卜
季語は「月」で秋、天象。「朝日」も天象。「伊勢」は名所、水辺。

   欅よりきて橋造る秋     李下
季語は「秋」で秋。「橋」は水辺。

 信長の治(おさま)れる代や聞ゆらん 揚水
無季。

   居士(こじ)とよばるるから国の児(ちご) 文鱗
無季。「児」は人倫。

 紅(くれなゐ)に牡丹十里の香を分(わけて  千春
季語は「牡丹」で夏で植物、草類。

   雲すむ谷に出る湯をきく   峡水
無季。「雲」は聳物。「谷」は山類。

 岩ねふみ重き地蔵を荷ひ捨(すて)  其角
無季。釈教。「岩ね」は山類。

   笑へや三井の若法師ども   コ斎
無季。釈教。「三井」は名所。

名裏
 逢ぬ恋よしなきやつに返歌して  仙化
無季。恋。

   管弦をさます宵は泣(なか)るる   芳重
無季。恋。

 足引の廬山(ろざん)に泊るさびしさよ  揚水
無季。「廬山」は山類、名所。
「廬山」=白楽天が廬山尋陽で作詞した『琵琶行』を本説としている。

   千声(ちごゑ)となふる観音の御名(みな) 其角
無季。釈教。

 舟いくつ涼みながらの川伝い   枳風
季語は「涼み」で夏。「舟」「川伝い」は水辺。

   をなごにまじる松の白鷺   峡水
無季。「をなご」は人倫。「松」は植物、木類。「白鷺」は鳥類。

 寝筵(むしろ)の七府(ななふ)に契る花匂へ  不卜
季語は「花」で春で植物、木類。恋。
「七府」=『夫木抄』の、「みちのくの十符の菅薦七符には/君を寝させて三符に我が寝む/             よみ人知らず」本歌とする。

   連衆くははる春ぞ久しき   挙白
季語は「春」で春。「連衆」は人倫。

参考;『校本芭蕉全集』第三巻(小宮豐隆監修、1963、角川書店)
(この百韻の前半五十句目までは芭蕉自身による『初懐紙評注』という評語が残っている。)
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『蛙合(仙化編)』(二十番句合) [江戸の俳諧]

『蛙合』『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(大内初夫、櫻井武次郎、雲英末雄校注、一九九四、岩波書店)

https://suzuroyasyoko.jimdofree.com/%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%96%A2%E4%BF%82/%E8%9B%99%E5%90%88-%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80/

【 『蛙合』は貞享三年(一六八六)の春、深川芭蕉庵に芭蕉、素堂、孤屋、去来、嵐雪、杉風、曾良、其角らが会して二十番の蛙の句合を行い、その衆議判を仙化が書き留めたもの。その目的は「句合という趣向を借りて全二十組、すなわち四十句によって、和歌伝統の美学を脱した蛙の実相を活写する試み」(「古池の風景」谷地快一『東洋通信二〇〇九・一二』所収)であった。和歌伝統の代表作は「かはづ鳴く井出の山吹散りにけり花のさかりにあはましものを」(不知・古今・春)。
 芭蕉の高弟其角は句合の時、「古池や」ではなく「山吹や」を上五に提案したが採用されなかった。その其角の、発句「古池や」に付けた脇句が、寛政十一年(一七九九)に尾張の暁台が編んだ『幽蘭集』(芭蕉連句集)に収載されている。
   古池やかはづ飛こむ水の音    はせを
     芦のわか葉にかゝる蜘の巣   其角
 「なべて同条件のもとで発句に詠まれていないものを付けて、発句の世界の焦点を絞り、より具体的にして余情豊かな効果を導き出すのが脇句の役所である」(『連句辞典』)が、発句と同時同場の春景がそっと添えられている。飛び込む蛙と蜘蛛の巣の相対付(あいたいづけ)けにおかしみも感じる

http://www.basho.jp/ronbun/ronbun_2013_10_01/08.html   】

「一番
   左
 古池や蛙飛こむ水のおと      芭蕉
   右
 いたいけに蛙つくばふ浮葉哉    仙化
   此ふたかはづを何となく設たるに、四となり
   六と成て一巻にみちぬ。かみにたち下におく
   の品、をのをのあらそふ事なかるべし。」

「第二番
   左勝
 雨の蛙声(コハ)高(だか)になるも哀也 素堂
   右
 泥亀と門(かど)をならぶる蛙哉     文鱗
   小田の蛙の夕ぐれの声とよみけるに、雨のか
   はづも声高也。右、淤泥の中に身をよごして、
   不才の才を楽しみ侍る亀の隣のかはづならん。
   門を並ぶると云たる、尤手ききのしはざな
   れども、左の蛙の声高に驚れ侍る。」

「第三番
   左勝
 きろきろと我頬(ツラ)守る蛙哉  嵐蘭
   右
 人あしを聞(きき)しり顔の蛙哉  孤屋
   左、中の七文字の強きを以て、五文字置得て
   妙なり。かなと留りたる句々多き中にも、此
   句にかぎりて哉といはずして、いづれの文字
   をかおかん。誠にきびしく云下したる、鬼
   拉一体、これらの句にや侍らん。右、足
   音をとがめて、しばし鳴やみたる、面白く侍
   りけれ共、左の方勝れて聞侍り。」

「第四番
   左持
 木のもとの氈(せん)に敷(しか)るる蛙哉 翠紅
   右
 妻負(おふ)て草にかくるる蛙哉      濁子
   飛かふ蛙、芝生の露を頼むだにはかなく、花
   みる人の心なきさま得てしれることにや。つ
   まおふかはづ草がくれして、いか成人にかさ
   がされつらんとおかし、持。」

「第五番
   左
 蓑うりが去年(こぞ)より見たる蛙かな   李下
   右勝
 一畦(あぜ)はしばし鳴やむ蛙哉      去来
   左の句、去年より見たる水鶏かなと申さまほ
   し。早苗の比の雨をたのみて、蓑うりの風情
   猶たくみにや侍るべき。右、田畦をへだつる
   作意濃也。閣々蛙声などいふ句もたより
   あるにや。長是群蛙苦相混、有時也作
   不平鳴といふ句を得て以て力とし、勝。」

「第六番
   左持
 鈴たえてかはづに休む駅(ムマヤ)哉  友五
   右
 足ありと牛にふまれぬ蛙哉       琪樹
   春の夜のみじかき程、鈴のたへまの蛙、心に
   こりて物うきねざめならんと感太し。右、
   かたつぶり角ありとても身をなたのみそとよ
   めるを、やさしく云叶へられたり。野径のか
   はづ眼前也、可為持。」

「第七番
   左
 僧いづく入相のかはづ亦淋し     朱絃
   右勝
 ほそ道やいづれの草に入(いる)蛙  紅林
   雨の後の入相を聞て僧寺にかへるけしき、さ
   ながらに寂しく聞え侍れども、何れの草に入
   かはづ、と心とめたる玉鉾の右を以て、左の
   方には心よせがたし。」

「第八番
   左
 夕影や筑(つく)ばに雲をよぶ蛙  芳重
   右勝
 曙の念仏はじむるかはづ哉     扇雪
   左、田ごとのかはづ、つくば山にかけて雨を
   乞ふ夕べ、句がら大きに気色さもあるべし。
   右、思ひたへたる暁を、せめて念仏はじむる
   草庵の中、尤殊勝にこそ。」

「第九番
   左勝
 夕月夜畦に身を干す蛙哉       琴風
   右
 飛(とぷ)かはづ猫や追行小野の奥  水友
   身をほす蛙、夕月夜よく叶ひ侍り。右のかは
   づは、当時付句などに云ふれたるにや。小の
   のおく取合侍れど、是また求め過たる名所と
   や申さん。閑寥の地をさしていひ出すは、一
   句たよりなかるべきか。ただに江案の強弱を
   とらば、左かちぬべし。」

「第十番
   左
 あまだれの音も煩らふ蛙哉      徒南
   右勝
 哀にも蝌(かへるご)つたふ筧かな  枳風
   半檐疎雨作愁媒鳴蛙以与幽人語、な
   どとも聞得たらましかば、よき荷担なるべけ
   れども、一句ふところせばく、言葉かなはず
   思はれ侍り。かへる子五文字よりの云流し、
   慈鎮・西行の口質にならへるか。体かしこけ
   れば、右、為勝。」

「第十一番
   左
 飛かはづ鷺をうらやむ心哉     全峰
   右勝

 藻がくれに浮世を覗く蛙哉     流水
   鷺来つて幽池にたてり。蛙問て曰、一足独挙、
   静にして寒葦に睡る。公、楽しい哉。鷺答へ
   て曰、予人に向つて潔白にほこる事を要せず。
   只魚をうらやむ心有、と。此争ひや、身閑に
   意くるしむ人を云か。藻がくれの蛙は志シ高
   遠にはせていはずこたへずといへども、見解
   おさおさまさり侍べし。」

 「第十二番
   左持
 よしなしやさでの芥とゆく蛙    嵐雪
   右
 竹の奥蛙やしなふよしありや    破笠
   左右よしありや、よしなしや。」

「第十三番
   左持
 ゆらゆらと蛙ゆらるる柳哉     北鯤
   右
手をかけて柳にのぼる蛙哉     コ斎
   二タ木の柳なびきあひて、緑の色もわきがた
   きに、先一木の蛙は、花の枝末に手をかけて、
   とよめる歌のこと葉をわづかにとりて、遙な
   る木末にのぞみ、既のぼらんとしていまだの
   ぼらざるけしき、しほらしく哀なるに、左の
   蛙は樹上にのぼり得て、ゆらゆらと風にうご
   きて落ぬべきおもひ、玉篠の霰・萩のうへの
   露ともいはむ。左右しゐてわかたんには、数
   奇により好むに随ひて、けぢめあるまじきに
   もあらず侍れども、一巻のかざり、古今の姿、
   只そのままに筆をさしおきて、後みん人の心
   心にわかち侍れかし。」

「第十四番
   左持
 手をひろげ水に浮(うき)ねの蛙哉  ちり
   右
 露もなき昼の蓬に鳴(なく)かはづ  山店
   うき寐の蛙、流に枕して孫楚が弁のあやまり
   を正すか。よもぎがもとのかはづの心、句も
   又むねせばく侍り。左右ともに勝負ことはり
   がたし。」

「第十五番
   左
 蓑捨(すて)し雫にやどる蛙哉   橘襄
   右勝
 若芦にかはづ折(をり)ふす流哉  蕉雫
   左、事可然体にきこゆ。雫ほすみのに宿か
   ると侍らば、ゆゆしき姿なるべきにや。捨る
   といふ字心弱く侍らん。右、流れに添てす
   だく蛙、言葉たをやか也。可為勝か。」

「第十六番
   左
 這(はひ)出て草に背をする蛙哉      挙白
   右勝
 萍(うきくさ)に我子とあそぶ蛙哉     かしく
   草に背をする蛙、そのけしきなきにはあらざ
   れども、我子とあそぶ父母のかはづ、魚にあ
   らずして其楽をしるか。雛鳧は母にそふて
   睡り、乳燕哺烏その楽しみをみる所なり。風
   流の外に見る処実あり、尤勝たるべし。」

「第十七番
   左勝
 ちる花をかつぎ上たる蛙哉     宗派
   右
 朝草や馬につけたる蛙哉      嵐竹
   飛花を追ふ池上のかはづ、閑人の見るに叶へ
   るもの歟。朝草に刈こめられて行衛しられぬ
   蛙、幾行の鳴をかよすらん、又捨がたし。」

「第十八番
   左持
 山井(やまのゐ)や墨のたもとに汲(くむ)蛙 杉風
   右
 尾は落(おち)てまだ鳴(なき)あへぬ蛙哉  蚊足
   山の井の蛙、墨のたもとにくまれたる心こと
   ば、幽玄にして哀ふかし。水汲僧のすがた、
   山井のありさま、岩などのたたずまひも冷じ
   からず。花もなき藤のちいさきが、松にかか
   りて清水のうへにさしおほひたらんなどと、
   さながら見る心地せらるるぞ、詞の外に心あ
   ふれたる所ならん。右、日影あたたかに、小
   田の水ぬるく、芹・なづなやうの草も立のび
   て、蝶なんど飛かふあたり、かへる子のやや
   大きになりたるけしき、時に叶ひたらん風俗
   を以、為持。」

「第十九番
   左勝
 堀を出て人待(まち)くらす蛙哉   卜宅
   右
 釣(つり)得てもおもしろからぬ蛙哉 峡水
   此番は判者・執筆ともに遅日を倦で、我を忘
   るるにひとし。仍而以判詞不審。左かち
   ぬべし。」

「第二十番
   左
 うき時は蟇(ヒキ)の遠音も雨夜哉  そら
   右
 ここかしこ蛙鳴ク江(え)の星の数  キ角
   うき時はと云出して、蟾の遠ねをわづらふ草
   の庵の夜の雨に、涙を添て哀ふかし。わづか
   の文字をつんでかぎりなき情を尽す、此道の
   妙也。右は、まだきさらぎの廿日余リ、月な
   き江の辺リ風いまだ寒く、星の影ひかひかと
   して、声々に蛙の鳴出たる、艶なるやうにて
   物すごし。青草池塘処々蛙、約あつてきた
   らず、半夜を過と云ける夜の気色も其儘にて、
   看ル所おもふ所、九重の塔の上に亦一双加へ
   たるならんかし。」

「追加
    鹿島に詣侍る比(ころ)真間の継はしニて
 継橋(つぎはし)の案内顔(かほ)也飛(とぶ)蛙 不卜」

 頃日(けいじつ)会/深川芭蕉庵而/群蛙(ぐんあ)鳴句以※衆議判(しゅうぎはん)而/
馳禿筆(とくひつ)青蟾(せいせん)堂仙化(せんか)子撰(えらぶ)焉乎
  貞享三丙寅歳閏三月日  新革屋町 西村梅風軒

※衆議判(しゅうぎはん)
① 合議で優劣、善し悪し、採否などを決めること。
※浮世草子・好色敗毒散(1703)三「まづ今日は初会の事なれば、女郎の物好き重ねて、衆議判(シュギハン)にて極むべし」
② 歌合で、参加した左右の方人(かたうど)が、互いにその歌の優劣を判定すること。また、その方法。
※源家長日記(1216‐21頃)「此御歌合和歌所にて衆儀はん也しに、この歌をよみあけたるを、たひたひ詠せさせ給、よろしくよめるよしの御気色なり」
(「精選版 日本国語大辞典」)

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0002-001204

『蛙合(仙化編)).jpg

『蛙合(仙化編))(「東京大学付属図書館」蔵) 3/21(コマ)

(追記)
 『蛙合(仙化編)』が成った「貞享三年(一六八六)」、芭蕉、四十三歳の時であった。この蛙を主題とする「二十番句合」(二句ずつ合わせて四十句、プラス、追加一句の四十一句)は、それぞれ判詞を添え、「仙化をはじめとして素堂・其角・嵐雪・杉風・去来・嵐蘭・素堂・文鱗・弧屋・濁子・破笠」等々と錚々たる連衆である。
 仙化の「跋」によると「衆議判」ということであるが、これだけの連衆が一堂に会しての「衆議判」というのは破天荒のことで、実際に芭蕉庵に会した連衆は、「庵主芭蕉・友人素堂・板下を書いた其角・編者仙化などが、さしずめ当日の出席者であろうか」(『元禄俳諧集・岩波書店』)と、全くの連衆全員による「衆議判」ではないと解すべきなのであろう。
 また、芭蕉の句の「古池や蛙飛びこむ水のおと」も、この『蛙合』の貞享三年(一六八六)時の作ではなく、それより以前の、天和二年(一六八二)、芭蕉、三十九歳時の作と解するのが(『芭蕉集(全))・古典俳文学大系五』)、『蛙合(仙化編)』と同年次に成った『春の日(荷兮編)』収載とも関連し妥当のように思われる。

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北斎の狂句(その十) [北斎の狂句]

その十 明キ株は三郎坊に中天狗

明キ株は三郎坊に中天狗(ちゅうてんぐ) 卍 文政八年(一八二五)

●明キ株=「株」=「特定の集団が、その構成員を身分・資産・業務などによって限定して認めた場合、その資格が権利化したものをいう。封建的な身分制度が確立した江戸時代に、身分、格式、業務が世襲継承され固定してくると、これが株となった。株には、主として社会的理由によるものと、経済的理由によるものの2種類が考えられる。たとえば武士の御家人(ごけにん)株、郷士(ごうし)株、町人の名主株、家主株、農民の百姓株などは前者であり、商人、職人などが営業上の利益のために結成した仲間組合の株などは後者の例である。株は権利であるから売買、譲渡が行われた。しかし御家人、名主のような身分は、実質上株化して売買されていても、形式上は養子相続などの形をとり、表面には現れない。しかし商人、職人仲間の株などは領主にも公認され、株仲間などがつくられた。」(「日本大百科全書(ニッポニカ)」)→「明(空)キ株」=売りに出された株。

●三郎坊=「太郎坊(長男)・次郎坊(次男)・三郎坊(三男)」の「三男坊」で、ここは、

「太郎坊天狗(「愛宕太郎坊天狗」など)・「次郎坊天狗(「比良次郎坊天狗」など)に比し、「三郎坊天狗」は、「四十九天狗」などの呼称には出てこない。すなわち、珍しいという意のようである。

●中天狗=「大天狗(「鼻が高い天狗」など)・中天狗・小天狗(「鳥の姿をした天狗」など)の「中天狗」で、この「中天狗」も「天狗」の別称などには使われない。これまた、珍しいということになる。

大天狗の鼻やちよつぽりかたつむり (一茶)  夏/ 動物/蝸牛/文政句帖/文政7

鳴き虫(を)つれて行くとや大天狗 (一茶) 冬/人事/神の旅/文政句帖/文政7

大天狗小天狗とて冬がれぬ(一茶) 冬/植物/冬枯れ/七番日記/文化11


句意=貧乏旗本などの身分の「売り買い」は、「太郎坊天狗・次郎坊天狗」や「大天狗・小天狗」のように、耳にすることもあるが、我が「卍」らの「葛飾連」の「連=株=仲間入り」に関しては、「三郎坊天狗・中天狗」の類で、その正体は、さっぱり表には出てこない。

 この句がつくられた文政八年(一八二五)に、その「年譜」(『北斎館肉筆画大図鑑』所収「葛飾北斎年譜」)に因ると、「川柳選句集『俳風柳多留』八十五編(四代川柳輯)に序文を寄せ北斎作十九句が載る」と記されている。その北斎の「序」は次のものである。

【 敷島の道ハ正(ただしふ)して動ず。縦(たとへ)バ人の立(たて)るに等(ひと)し。是(これ)真(しん)と言(いふ)べきや。連俳(れんぱい)ハ前句(ぜんく)の意を伝(つた)へて其(その)様(さま)を異(こと)にす。巻中自(おのずから)歩(あゆ)むが如(ごと)し。亦(また)行(ぎやう)ならずや。されバ此(この)風詠は滑稽を元とし、興(きやう)を縱(ほしいまま)にす。聞人(きくひと)咄笑(とつせう)して、能(よく)世に走るを以(もつ)て艸(さう)とせんか。しかも川柳(かハやなぎ)の枝葉(しえふ)繁茂もして、八十五編の著名を分(わか)つ。夫(そ)が中に女郎花(をみなへし)と呼べる名に愛(めで)て馬喰町に居(お)る清屎(きよくそ)の主(あるじ)一ト年(ひととせ)風流の筵を開き、四方(よも)の好子(かうし)を勧めて、何百有余吟(ぎん)を集め川柳(せんりう)翁の撰(えら)みを乞(こ)ふ。甲乙の位定(さだま)りて、上木(じうぼく)して集の末編に備(そな)ふ。僕(やつがれ)其(その)席に連(つらな)るを以(もつて)是(これ)に序(じよ)せよとなり。幼より画を好むの癇癪(こへき)ハあれど文編(ぶんへん)の筵を窺(うかが)ふの眼(まなこ)なく、※烏焉馬(うえんば)の誤(あやまり)いかにせんと再三辞すといへども赦(ゆる)さず。止事(やむこと)を不得(えず)して丹青の筆を霏(そそ)ぎ鈍(にぶ)き墨を点(てん)じ、文に似(にた)るを記(しる)す。観(みる)人咎(とがむ)る事(こと)勿(なか)れ。

于時(ときに)文政酉(とり)の夏前   北斎葛飾為一述卍   】(『謎解き 北斎川柳(宿六心配著)』p10-11)

この北斎の「序」中の「※烏焉馬(うえんば))を、「私本『葛飾北斎ハンドブック』年譜で辿る画工の生涯(改訂版)」:東京都台東区生涯学習「葛飾北斎研究会」村井 信彦」では、「※烏亭焉馬(うていえんば)(落語中興の祖。1743~1822)の勧めでしかたなく序文を書いたというのである」と、「江戸中期の俗文壇の万般に通じた世話役」ともいうべき、「烏亭焉馬」(「立川焉馬」「「立川談洲楼」」「談洲楼焉馬」「「鑿釿言墨曲尺(のみのちょうなごんすみかね)」)を登場させている。

【 ※烏亭焉馬(うていえんば)

没年:文政5.6.2(1822.7.19)
生年:寛保3(1743)

江戸中期の戯作者。当時の劇文壇、劇界のパトロンとしても知られた。江戸相生町住の大工棟梁を家職とし、通称を和泉屋和助というが、天明末年(1789年ごろ)に町大工となる。戯作は安永6(1777)年ごろから手を染め,活動はほとんどのジャンルにわたる。また,平賀源内や大田南畝などとの親交を通じて、やがて江戸浄瑠璃の作者となり、芝居関係にも顔の利く存在となって、市川団十郎の贔屓団体「三升連」を組織して、代々の団十郎をおおいに守り立てた。晩年、団十郎の顕彰を意図して刊行した『花江戸歌舞伎年代記』(1811~15)は,江戸歌舞伎の根本資料として貴重である。一方、天明末年には新作の落咄の会を創始し、落語中興の祖とも称されている。戯作と芝居と狂歌と落咄という、江戸中期の俗文壇の万般に通じた世話役という役所をつとめた親分肌の人物であったらしい。<参考文献>延広真治「烏亭焉馬年譜」1~6(『東京大学教養学部人文科学科紀要』1982年3月号他   (中野三敏)  】 (「 朝日日本歴史人物事典」)   

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「落噺詞葉の花(おとしばなしことばのはな)」烏亭焉馬編 寛政9年(1797)刊

https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/rakugo/page1-1.html

『 烏亭焉馬編『喜美談語(きみだんご)』の後編に当る、「咄の会」の咄本第二集で、寛政8年4月初めより10月末までの間に、焉馬が披露した落し噺中より47名51話を選び、出版したものです。

 序題は『落噺六義(おとしばなしりくぎ)』。『古今和歌集』の和歌六義(わかりくぎ)(そえ歌・かぞえ歌・なずらえ歌・たとえ歌・ただごと歌・いわい歌)にならって落し噺を分類している点に特色があります。

口絵は三升連(焉馬の主催した五世市川団十郎の贔屓連中の名称)の紙を吊した玄関に、武士・僧侶たち三人が入ろうとする絵で、「咄の会」に集まってくる人々の様子が窺えます。』(「東京都立図書館」・「大江戸エンターテインメント」)

 この口絵の、左側の玄関に張り出されている紙に書かれているのが、五世市川団十郎の「三升」連(焉馬の主催した五世市川団十郎の贔屓連中の名称)である。

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「市川團十郎 (5代目)」(「ウィキペディア」)
『恋女房染分手綱』の竹村定之進=市川鰕蔵(五代目市川團十郎)の竹村定之進、『恋女房染分手綱』より(「東洲斎写楽」画)

 これは「写楽」画の「五代目市川団十郎」の演ずる「『恋女房染分手綱』の竹村定之進」であるが、「歌川豊国」画の「五代目市川団十郎と孫の市川新之助(七代目團十郎)」を描いたものは、次図のとおりである。

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『寛政8年に引退する際に出された絵。「一世一代口上」と題して、「当顔見世かぎり隠居仕り候に付き、御贔屓様方へおいとまごいの為口上を以て申上げ奉り候…」と役者を引退すること、さらに孫の市川新之助(七代目團十郎)をのちのちまで贔屓にしてくれるようにと頼んでいる。歌川豊国画。』(「ウィキペディア」)

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「2020年5月、十三代目市川團十郎白猿の襲名披露を発表」
https://www.kabuki-bito.jp/news/5258/

『2020年5月、6月、7月歌舞伎座で、市川海老蔵が十三代目市川團十郎白猿を襲名することが発表されました。同時に、海老蔵長男の堀越勸玄が八代目市川新之助として初舞台を行います。』(「歌舞伎美人」)


(参考その一)「私本『葛飾北斎ハンドブック』年譜で辿る画工の生涯(改訂版)」:東京都台東区生涯学習「葛飾北斎研究会」村井 信彦」での、(北斎の川柳)・(柳多留85 扁)・(柳多留86 扁)・(柳多留88 編)」(抜粋)

【 (北斎の川柳)  p509-510

安永5 年(1776)・寛政元年(1789)に「可候(かこう)」(草双紙作者)、文化2 年(1819)に「錦袋(きんたい)」、同2・3 年からは「万二」「万仁」「萬二」「万治」「万子」と「まんじ」と読む俳号が登場するが、いずれも北斎とは別人と考えられる。文政8 年(1825)の『誹風柳多留』85 扁では序文を書き、本格的に卍号を使用し始めた。作句は天保15 年(弘化元年:1844)まで続けたと思われる。その間、文政11 年(1828)に「カツシカ」、晩年には「万字(まんじ)」「百姓(ひゃくしょう)」「百性(ひゃくしょう)」なども使用している(以上は田中聡『北斎川柳』2018 河出書房新社 p15~17 の記載を参照した)。】

【 (柳多留85 扁) p517-518

☆団子屋(だんごや)の夫婦喧嘩は犬も喰くい 卍(犬も食わない夫婦喧嘩も、団子屋の喧嘩は飛び散った団子を犬が食う)

☆黄色なゑり巻和尚さまきつい好(すき) 卍(黄色の襟巻きの高僧は、襟巻き同様、男色の狭くてきついのが好き)


☆誰が嗅かいで見て譬(たとえ)たか河童の屁 卍(屁の河童というが、いったい誰が嗅いで譬えたというのか)→ 北斎の狂句(その七)

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☆鳥指(とりさし)ハ生きた雀の帯を〆(しめ) 卍(鳥指しは捕まえた雀を生きたまま腰の帯に挟み込み、後で鷹匠に渡す)


※☆誰がかいで見て譬(たとえ)たか河童の屁 卍(他者評により前出。但し、表記に異同あり) → 北斎の狂句(その七)

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☆いろはへ花のちりにるハ比叡おろし 卍(比叡山に縁のある上野寛永寺の坊主が、花の散るようにぞろぞろと不忍のいろは茶屋を目指す)

☆とかく葛(くず)の葉は後(うし)ロろからさせ勝手 卍(安倍清明の母・葛の葉は狐の化身。交接は後からのし放題)

☆大道(だいどう)直(なふ)おして昌平(しょうへい)まで柳 卍(無)(浅草御門から昌平までの柳の大道は吉原通いの人出が多い)

☆新造(しんぞう)を備後(びんご)表(おもて)へのり出させ 卍(経験浅い新造は、備後表の畳に船を乗り出すように頭が蒲団の上に出る)

☆気行(きゆき)の情(じょう)を能(よく)真似(まね)るので流行(はやり) 卍(いく表情や仕草が演技ながら上手なので人気の遊女だ)

☆足ながの三里(さんり)手長がすへてやり 卍(足長の男の三里には手長の男が灸を据えてやる。『山海経』から)

☆頭(かしら)字(じ)をひろつて夫婦ツマト呼ヒび 卍(妻も夫もツマと呼ぶ。妻のツビ、夫のマラの頭文字も続ければツマ)

☆真直(まっす)ぐな樫木(かた)ぎの棒を母の杖(つえ) 卍(真っ直ぐな硬い棒が母の杖になる。堅気の真面目な息子の棒も義母の棒だ)

☆見附物(みつけもの)だと突つき合あわぬ鳩仲間 卍(口うるさい見附の番人のいる所の鳩は、互いに突つかずに、付き合わない)

☆雪の朝親を炬燵に呵しかり込ミ 卍(雪の朝、仕事を装い遊郭に行こうとする父親を炬燵に入れと諫める子)

☆売(うり)居だなのやうに御寺(おてらの煤(すす)はらひ 卍(売り家のように堂内をからっぽにしての寺の煤払い)

☆化物の息子三郎(さぶろう)ツ首(くび)ぐらゐ 卍(六郎っ首の息子だから三郎っ首ぐらいのものだろう)

☆鉄壁(てっぺき)も通ふれと浅黄(あさぎ)おやしてる 卍(遊郭で、浅黄木綿の田舎侍が鉄壁も破らんと勃起して控えている)

☆干(ひ)蛸魚(だこ)苞(づ)と麩(ふ)となり果(はてる)口惜(くちおし)さ 卍(干蛸の足を藁で包んだようなあそこの元気も、柔らかい麩のようになった悔しさ)


(柳多留86 扁) p518-519

☆御薬(おやく)薗(えん)青(あお)瓢(びょう)単(ママ・たん)がゑんを這はひ 卍(小石川薬草園の療養所の縁側に青ざめた病人が寝ている)

☆灰(はい)小屋(ごや)の出逢イ穣いが栗ぐり投入れ 卍(灰を貯える小屋での密会は、覗いた男に嫌がらせで毬栗いがぐりを投げ込まれる)

☆紅葉ふみわけぐんにやりと鹿の屎(ぐそ) 卍(紅葉踏み分け、なんと鹿の屎を踏む。猿丸太夫の歌を踏まえる)

☆御薬(おやく)薗(えん)青(あお)瓢(びょう)単(ママ・たん)がゑんを這はひ 卍(他者評により前出)

☆ 鮞(はららご)と唐(とう)もろこしハ又いとこ 卍(魚の卵のつぶつぶはトウモロコシと似ていて従姉妹いとこの従姉妹か)

☆紅葉ふみわけぐんにやりと鹿の屎(ぐそ) 卍(他者評により前出)

☆小当(こあたり)のこたつにむすこ首ツたけ 卍(娘と炬燵に入り、息子は相手の気持ちを探る。息子も元気)

☆雪かきの十(じゅう)のふの出る美しさ 卍(冷たい雪かきに、炭火を運ぶ十能じゅうのうを持って出てくる娘の美しさ)

☆唐(とうの)節季候(せきぞろ)チャルメラで踊り込み 卍(割竹を鳴らす門付けの節季候が、チャルメラを鳴らす唐人だ)

☆ふん付けたかとおもわれる乱(らん)拍子(びょうし) 卍(能「道成寺」の足踏みの舞は踏んづけたよう。「糞」に掛ける)

☆二に間柄(けんえ)の蛇皮線(じゃびせん)を弾く手長(てなが)島(じま) 卍(一間いっけんの柄(え)を二間にして蛇皮線を弾く『山海経』にある手長国の女)

☆天狗の管弦簫(しょう)の笛をバば吹(ふか)ず 卍(天狗は管弦も得意だが、簫は鼻が邪魔して吹くことができない)

☆すくはせ給へ御十(ごじゅう)夜(や)のあづきがゆ 卍(御十夜の日のあずき粥。私を救うように掬ってください)

☆惣(そう)銅(どう)壺(こ)女房と共に身をしづめ 卍(借金で、女房は身売りし、火鉢の高価な銅の燗付けまでも売りに出す)

☆新道しんみちへ金のなる木をやりたがり 卍(横町の細い新道には妾が多い。娘も妾にして裕福に暮らさせたい)

☆いゝの〱いいのを尻で書ク大年増(だいどしま) 卍(大年増は娘と違い、指ではなく「いいの」を恥じらいなく畳に尻で書く)

☆灸点(きゅうてん)に勇士(ゆうし)後(うし)ロろを見せる也(なり) 卍(敵に後ろを見せない勇士も、灸を据えるときは背中を見せてやせがまん)

☆彫物の有るが稲荷の吾妻ツ子 卍(浅草稲荷町の寺は彫刻が多い。彫物のある寺も男も江戸っ子の自慢)

☆灸点(きゅうてん)に勇士(ゆうし)後(うし)ロろを見せるなり 卍(他者評により前出。但し、表記に異同あり)

※※☆明キ株は三郎坊さぶろうぼうに中天ちゅうてん狗ぐ 卍(長男・次男ならぬ三男坊や大天狗ならぬ中天狗には株がなく、一人身が多い)

→ 北斎の狂句(その十)=冒頭の句・句意

(再掲)

 句意=貧乏旗本などの身分の「売り買い」は、「太郎坊天狗・次郎坊天狗」や「大天狗・小天狗」のように、耳にすることもあるが、我が「卍」らの「葛飾連」の「連=株=仲間入り」に関しては、「三郎坊天狗・中天狗」の類で、その正体は、さっぱり表には出てこない。

☆六部宿(ろくぶやど)千手観音(せんじゅかんのん)背負(しょわ)せられ   卍(六十六部が泊まる安宿では、千手観音と称す虱をうつされる)

☆ふへますに気がへりますと姑(しゅう)とめいゝ   卍(娘に子が増えたけれど、私は白髪や皺が増えて気が滅入る)

☆大切な屎(ぐそ)を見に来る小児(しょうに)医者(いしゃ)  卍(もっともらしく診察で子どもの屎を見に来る小児医は胡散臭い)

☆我ながらくさめを笑ふ鏡磨キ   卍(銅の鏡面を磨きながらくしゃみをした自分の変な顔に思わず苦笑い)

☆振袖と羽織を吃(ママ・吠ほえ)る村の犬   卍(村には珍しい振袖姿の娘や羽織の男。胡散臭さに犬も吠える)

☆其(その)腰で夜ルも竿さす筏(いかだ)乗り  卍(木場のいなせな筏乗りは、そのしっかりした腰で夜も竿さすのか)

☆さめての上の御分別(ごふんべつ)黒に染(そ)メ   卍(色褪た着物はよく思案して古さの目立たない黒に染め直そうか。『仮名手本忠臣蔵』七段目「一力茶屋」の場での平右衛門の台詞「醒(さめ)ての上の御分別、無理を押へて三人を」を踏む)


(柳多留88 編) p519

☆猪子(いのこ)から櫓(やぐら)の下でたゝきばき 卍(猪子の日は炬燵こたつ開きの日。炬燵の下は男女の舞台。触れた手を叩く) 】


(参考その二) 北斎の画号・戯作名(狂句名など)とその使用年代(『謎解き 北斎川柳(宿六心配著)』を中心に『北斎川柳(田中聡著)などで補筆)) ※は「主要狂句名」

春朗(しゅんろう) 20歳~35歳  安永8年(1779)~寛政6年(1794)頃

群馬亭(ぐんばてい)26歳~35歳  天明5年(1785)~寛政6年(1794)か?

百琳宗理(ひゃくりんそうり)36歳~38歳 寛政7年(1795)~寛政9年(1797)

俵屋宗理(たわらやそうり) 37歳 ~39歳 寛政8年(1796)~寛政10年(1798)

北斎宗理(ほくさいそうり)38歳~39歳 寛政9年(1797)~寛政10年(1798)

北斎(ほくさい) 38歳~60歳      寛政9年(1797)~文政2年(1819)

※可候(かこう)39歳~52歳    寛政10年(1798)~文化8年(1811)

不染居北斎(ふせんきょほくさい)40歳 寛政11年(1799

辰政(ときまさ)40歳~51歳      寛政11年(1799)~文化7年(1810)

画狂人(がきょうじん) 41歳~49歳    寛政12年(1800)~文化5年(1808)

※錦袋舎(きんたいしゃ)46歳~50歳   文化2年(1805)~文化6年(1809)

九々蜃(くくしん) 46歳        文化2年(1805)

画狂老人(がきょうろうじん) 46歳~47歳 文化2年(1805)~文化3年(1806)
  75歳~90歳 天保5年(1834)~嘉永2年(1849)

戴斗(たいと)52歳~61歳        文化8年(1811)~文政3年(1820)

雷震(らいしん) 53歳~56歳        文化9年(1812)~文化12年(1815)

鏡裏庵梅年(きょうりあんばいねん)53歳 文化9年(1812)

天狗堂熱鉄(てんぐどうねってつ) 55歳 文化11年(1814) 

為一(いいつ) 61歳~75歳          文政3年(1820)~天保5年(1834)

前北斎為一(ぜんほくさいいいつ) 62歳~74歳  文政4年(1821)~天保4年(1833)

不染居為一(ふせんきょいいつ) 63歳  文政5年(1822)

月癡老人(げっちろうじん) 69歳     文政11年(1828)

※卍(まんじ) 72歳~90歳           天保2年(1831)~嘉永2年(1849)

(万二・万仁・満二・満仁・万治・百々爺=ももんじい・百×百=万)

三浦屋八右衛門(みうらやはちえもん) 75歳~87歳  天保5年(1834)~弘化3年(1846)

※百姓八右衛門(しゃくしょう八右衛門)75歳~87歳 天保5年(1834)~弘化3年(1846)

土持仁三郎(つちもちにさぶろう) 75歳       天保5年(1834)

藤原為一(ふじわらいいつ)88歳~90歳     弘化2年(1846)~嘉永2年(1849)


(参考その三)『北斎年譜 』―永田生慈「葛飾北斎年譜」より(「島根県立美術館浮世絵コレクション」)

https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/nenpyo/index.html

※本年譜は、永田生慈「葛飾北斎年譜」(『北斎研究』二十二号 1997年)に記載された「主な事蹟」、「作品」について抜粋したものです。※「年齢」は数え年です。※「作品」には、近年発見された作品も追加したほか、作品名について一部近年の表記に統一しました。※「作品」に付随する( )内は、作品中にある北斎の署名です。※「作品」末尾の[ ]は、本サイトの作品番号を示しています。※版画作品(錦絵・摺物・版本)の所蔵先は主な所蔵先例を記載しました。※「作品」で所蔵先の表記がないものは当館所蔵品です。※「作品」について、制作年未定または制作期の幅が大きい作品は割愛しました。

宝暦十年(1760) 1歳 ・九月二十三日、江戸本所割下水に出生したという。幼名を時太郎、のち鉄蔵と名乗ったという。(『葛飾北斎伝』より)父親は川村某、倉田某、二代中嶋伊勢の長男など諸説ある。

宝暦十三年(1763) 4歳 ・この頃、幕府御用鏡師中嶋伊勢の養子になるという。また壮年期の事ともいわれる。(『曲亭来簡集』馬琴覚書より)

明和二年(1765) 6歳 ・この頃より好んで絵を描くという。(『富嶽百景』、『画本彩色通』より)

安永二年(1773) 14歳 ・この頃、彫師の修行を始めるという。(『葛飾北斎伝』より)

安永四年(1775) 16歳 ・洒落本『楽女格子』(雲中舎山蝶作)、末六丁の文字彫りをしたという。(朝倉夢声「浮世絵私言」、『葛飾北斎伝』より)

安永七年(1778) 19歳 ・勝川春章に入門するか。

安永八年(1779) 20歳 ・「春朗」号で、作品を発表し始める。・細判錦絵 《三代目瀬川菊之丞 正宗娘おれん》(勝川春朗画)・細判錦絵 《四代目岩井半四郎 かしく》(勝川春朗画) 

安永九年(1780) 21歳 ・細判錦絵 《四代目岩井半四郎 おかる》(勝川春朗画)・黄表紙 『白井権八幡随長兵衛 驪比異(翼)塚』(作者不詳・勝川春朗画) 東京都立図書館蔵(加賀文庫)

天明二年(1782) 23歳 ・細判錦絵 《五代目市川団十郎 あげまきのすけ六》(勝春朗画) 日本浮世絵博物館蔵 ・黄表紙『はなし〈柱題〉』(自惚門人皆山五郎治・作・勝春朗画)・洒落本 『富賀川拝見』(蓬萊山人帰橋述・春朗画)

天明四年(1784) 25歳 ・細判錦絵 《市川団十郎 悪七兵衛景清・市川門之助 畠山重忠》(無款) ・この頃、大判錦絵 《花くらへ 弥生の雛形》(無款)ヵ・談義本『教訓雑長持』(伊藤単朴作・右十葉勝川春朗画)

天明五年(1785) 26歳 ・本年から翌年にかけて「群馬亭」の号を用いる。・黄表紙『親譲鼻高名』(可笑門人雀声作・春朗改群馬亭画)

天明六年(1786) 27歳 ・黄表紙『我家楽之鎌倉山』(作者不詳・群馬亭画)・黄表紙『前々太平記』(自惚山人戯作・勝春朗画) ・黄表紙『二一天作二進一十』(通笑門人道笑作・群馬亭画)

天明七年(1787) 28歳 ・小伝馬町に住むとされるが未定。(『葛飾北斎伝』より)・摺物(大小)《五代目市川団十郎の暫》(春朗画) ケルン東洋美術館蔵

寛政元年(1789) 30歳 ・細判錦絵《三代目大谷廣次 濡髪の長五郎》(春朗画)・細判錦絵《五代目市川団十郎 かげきよ》(春朗画)・摺物(大小)《十六むさしで遊ぶ子供》(春朗画)

寛政二年(1790) 31歳 ・本年頃、葛飾に住むか。(翌年の摺物《弓に的》に「葛飾住春朗画」とあり)・細判錦絵《五代目市川団十郎 ともへ御ぜん》(春朗画)・この頃、細判錦絵 《新板おどりゑづくし》(春朗画)ヵ  ・この頃、将棋本『駒組童観抄』(高久隆編・春朗画)ヵ

寛政三年(1791) 32歳 ・細判錦絵二枚続《市川蝦蔵の山賊実は文覚上人・三代目坂田半五郎の旅僧実は鎮西八郎為朝》(春朗画) 東京国立博物館蔵・摺物(大小)《寛政三弓始(弓矢と的)》(葛飾住 春朗画)・市村座絵本番付『岩磐花峯楠』(無款)・富本節正本『女夫合愛鉄槌』(春朗画)

寛政四年(1792) 33歳 ・十二月八日、師・勝川春章没す。・細判錦絵《市川鰕蔵 かげきよ》(春朗画) ・黄表紙『昔々桃太郎発端説話』(山東京伝作・春朗画)

寛政五年(1793) 34歳 ・本年か翌年頃、狩野融川に破門されるとされるが異論あり。(『葛飾北斎伝』などより)・この頃、摺物《冷水売り》(叢春朗画)ヵ ・この頃、俳諧絵半切《鎌倉勝景図巻》(叢春朗)ヵ・黄表紙『貧福両道中之記』(山東京伝作・春朗画)・この頃、肉筆画《婦女風俗図》(無款)ヵ  ・この頃、肉筆画《鍾馗図》(叢春朗画)ヵ  

寛政六年(1794) 35歳 ・春朗号を廃して「俵屋宗理」を襲名するか。・黄表紙『福寿海无量品玉』(曲亭馬琴作・無款)

寛政七年(1795) 36歳 ・本年か翌年頃、浅草第六天神脇町に住むか。(『浮世絵類考』より) ・摺物(大小)《大筒》(宗理写)・摺物(大小)《座敷万歳》(宗理画)・狂歌本『狂歌歳旦 江戸紫』(万亀亭花の江戸住撰・宗理画)

寛政八年(1796) 37歳 ・摺物(大小)《懐通辰己楼》(百琳宗理画) ベルリン東洋美術館蔵・摺物(大小)《元結作り》(宗理画)・摺物《花卉》(北斎宗理画)  ・狂歌本『帰化種』(清涼亭菅伎撰・百琳宗理画) シカゴ美術館蔵・この頃、狂歌本『四方の巴流』(狂歌堂真顔撰・北斎宗理画)ヵ・この頃、肉筆画《夜鷹図》(北斎宗理画)ヵ 細見美術館蔵・この頃、肉筆画《瑞亀図》(北斎宗理画)ヵ 奈良県立美術館蔵・この頃、肉筆画《玉巵弾琴図》(北斎宗理画)ヵ 個人蔵

寛政九年(1797) 38歳 ・摺物《曙艸(吉野山花見)》(北斎宗理画)・摺物《巳待の御札》(宗理画) ・狂歌本『柳の絲』(浅草庵市人撰・北斎宗理画)・狂歌本『さんたら霞』(三陀羅法師撰・北斎宗理画) 大英博物館蔵

寛政十年(1798) 39歳 ・本年か寛政十二年頃、林町三丁目甚兵衛店に住むという。・江戸長崎屋に滞在中のカピタンより、絵巻の依頼を受けるという。(『古画備考』より)・「宗理」号を門人の宗二に譲り、「北斎辰政」へ改名する。・摺物《石なご遊び》(北斎宗理校合)・摺物《亀》(北斎辰政画)・黄表紙『化物和本草』(山東京伝作・可候画)・狂歌本『春興帖』(森羅亭万象撰ヵ・北斎宗理画)・狂歌本『男踏歌』(浅草庵市人撰・北斎宗理画) 大英博物館蔵・この頃、活花教本『抛入花の二見』(十楽坊鬼丸編・北斎宗理画、完知など)ヵ ・この頃、肉筆画《小野小町図》(北斎画)ヵ ・この頃、肉筆画《人を待つ美人図》(北斎画)ヵ ・この頃、肉筆画《大仏詣図》(北斎画)ヵ 

寛政十一年(1799) 40歳 ・二月、三囲稲荷開帳に提灯と扁額を描く。(『寛政紀聞』より)・摺物(大小)《風呂上がりの母子図》(無款)・摺物《屠蘇を飲む福禄寿》(宗理改北斎画)・狂歌本『東遊』(浅草庵市人撰・画工北斉(ママ)) 

寛政十二年(1800) 41歳 ・摺物《宮詣の官女図》(先ノ宗理北斎画)・摺物《女刀鍛冶》(先ノ宗理北斎画)・摺物《玉虫と子安貝》(先ノ宗理北斎画)・狂歌本『東都名所一覧』(浅草庵市人撰・北斎辰政)

寛政十三年・享和元年(1801) 42歳 ・摺物《笠に蔬菜図》(画狂人北斎写) 太田記念美術館蔵・黄表紙『児童文殊稚教訓』(画作時太郎可候)

享和二年(1802) 43歳 ・本年刊行された黄表紙『稗史憶説年代記』(式亭三馬画作)に、春朗より北斎辰政までの画風が紹介される。また「倭画巧名尽」に写楽・歌麿・長喜・三蝶などと共に北斎辰政が浮島で表される。・摺物(大小)《大晦日掛取り》

(画狂人北斎)・狂歌本『みやことり』(画狂人北斎)・狂歌本『五拾人一首 五十鈴川狂歌車』(千秋庵三陀羅法師撰・北斎辰政)・狂歌本『画本忠臣蔵』(桜川慈悲成撰作・北斎辰政)・絵本『画本東都遊』(画工北斉(ママ))・この頃、狂詩絵本『潮来絶句集』(富士唐麿、柳亭陳人編・無款)ヵ  

※享和三年(1803) 44歳 ・三月十五日、大田南畝・烏亭焉馬に招かれ、亀沢町の竹垣氏別荘で席画をする。(大田南畝日記『細推物理』より)・黄表紙『三国昔噺 和漢蘭雑話』(曼亭鬼武作・可候画)・狂歌本『夷歌 月微妙』(樵歌亭校合・画狂人北斎画)・狂句本『絵本 小倉百句』(反古庵白猿作・北斎辰政)・読本『古今奇譚 蜑捨草』(流霞窓広住作・画狂人北斎画)・この頃、肉筆画《振袖新造図》(画狂人北斎画)ヵ ・この頃、肉筆画《旭日山水図》(画狂人北斎画)ヵ

享和四年・文化元年(1804) 45歳 ・四月十三日、江戸音羽護国寺にて百二十畳大の大達磨半身像を描く。(『一話一言』などより) ・摺物揃物《春興五十三駄之内》(画狂人北斎画)・摺物(大小)《見立芝居看板》(北斎画)・この頃、摺物(大小)《美人爪切り図》(ほくさゐのふで)ヵ・この頃、摺物《盆踊り》(画狂老人北斎画)ヵ・黄表紙『真柴久吉 武地光秀 御伽山崎合戦』(作者不詳・勝春朗画) 狂歌本『画本狂歌 山満多山』(大原亭主人撰・北斎画)・この頃、肉筆画《東方朔と美人図》(画狂人北斎画)ヵ

文化二年(1805) 46歳 ・この年、「九々蜃」の号を用いる。・摺物《菅原の上》(九々蜃北斎画)・摺物《山吹と桜》(九々蜃北斎画) ・狂歌本『百囀』(二世桑楊庵撰・画狂人北斎画)・読本『復讐奇話 絵本東嫩錦』(小枝繁作・画狂老人北斎)・読本『新編水滸画伝 初編初帙』(曲亭馬琴作・葛飾北斎画)・肉筆画《隅田川両岸景色図巻》(九々蜃北斎席画) すみだ北斎美術館蔵・肉筆画《円窓の美人図》(九々蜃北斎席画) シンシナティ美術館蔵・この頃、肉筆画《中国武人図》(画狂老人北斎画)ヵ 

文化三年(1806) 47歳 ・春より夏、曲亭馬琴宅に寄宿する。(『苅萱後伝玉櫛笥』馬琴自序より)・六月頃、上総国(千葉県)木更津に旅し、畳が池辺水野清兵衛方に逗留。水野家宅の襖に「唐仙人の楽遊」という襖絵を描くという。(永田生慈「房総の旅客葛飾北斎」ほかより) ・大判錦絵《仮名手本忠臣蔵》(無款) 東京国立博物館蔵・摺物《西王母図》(無款)・この頃、狂歌本『絵本隅田川 両岸一覧』(無款)ヵ ・肉筆画《富士の巻狩図(木更津日枝神社奉納絵馬)》(画狂人北斎旅中画)

文化四年(1807) 48歳 ・大判錦絵二枚続(二組)《三国妖狐伝》(北斎画) 東京国立博物館蔵、中右コレクション・この頃、摺物《子供の遊び》(葛飾北斎画)ヵ ・読本『鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月 前編』(曲亭馬琴作・葛飾北斎画)・読本『そののゆき 前編』(曲亭馬琴作・葛飾北斎画)・読本『墨田川梅柳新書』(曲亭馬琴作・葛飾北斎筆)・この頃、肉筆画《酔余美人図》(葛飾北斎画)ヵ 公益財団法人氏家浮世絵コレクション・鎌倉国宝館

文化五年(1808) 49歳 ・本年より、柳亭種彦との親しい交遊の様子が知られる。(『柳亭種彦日記』より)・八月二十四日、亀沢町に新宅を構え、柳橋の河内屋半二郎の楼で書画会を催す。この書画会の報状あり。(「北斎新築報状」より)・読本『近世怪談 霜夜星』(柳亭種彦作・かつしか北斎画)・読本『國字鵺物語』(芍薬亭長根作・葛飾北斎)・読本『阿波之鳴門』(柳亭種彦作・葛飾北斎画)・読本『三七全伝南柯夢』(曲亭馬琴作・葛飾北斎画)・合巻『敵討身代利名号』(曲亭馬琴作・葛飾北斎画)

文化六年(1809) 50歳 ・六月四日、柳亭種彦が火事見舞いの後に北斎宅で終日遊ぶ。(『柳亭種彦日記』より)・十一月、顔見世の絵看板を一枚描くという。また翌年にも絵看板を二枚描くという。(『我衣』より)・十二月二十五日、柳亭種彦が読本の構想を北斎に相談する。(『柳亭種彦日記』より)・本年頃、本所両国橋辺に住むか。(『阥阦妹脊山』奥付より)・摺物《還城楽》(葛飾北斎写) ・摺物《七福神》(かつしか北斎画)・読本『山桝太夫栄枯物語』(梅暮里谷峨作・葛飾北斎)・読本『忠孝潮来府志』(談洲楼焉馬作・葛飾北斎画)・読本『飛驒匠物語』(六樹園飯盛作・画匠葛飾北斎画) ・読本『於陸幸助 恋夢艋』(楽々庵桃英作・葛飾北斎)

文化七年(1810) 51歳 ・この頃より「戴斗」号を用いるか。(『己痴羣夢多字画尽』巻末広告より)・一月十六日、両国三河屋で馬琴が催した書画会に出席する。(『滝沢家訪問往来人名簿』より)・二月、三月、柳亭種彦の日記に北斎と完斎知道の記載あり。・三月、四月、柳亭種彦の日記に北斎門人北周(雷周)の祖母孝行に関する記載あり。・十一月、市村座の絵看板を描くという。(蜀山人日記(『歌舞伎年表』)より)・本年、葛飾に住むか。(『勢田橋竜女本地』見返しより) ・絵手本『己痴羣夢多字画尽』(葛飾北斎戯画)・肉筆画《七福神の図》(北斎筆※合筆) エドアルド・キオッソーネ記念ジェノヴァ東洋美術館蔵

文化八年(1811) 52歳 ・本年、読本の挿絵をめぐって馬琴と絶交したとする逸話あるも異論あり。(鈴木重三「馬琴読本の挿絵と画家」などより)・本年、 『椿説弓張月』の完結を記念して、版元平林庄五郎の依頼で肉筆画《鎮西八郎為朝図》を描く。(『近世物之本江戸作者部類』より)・当年刊行の『誹風柳多留』五十編に北斎に関する川柳(「北斎だねと摺物を撥で寄せ」)あり。・この頃、大判錦絵五枚続《吉原遊廓の景》(かつしか北斎画)ヵ・読本『勢田橋竜女本地』(柳亭種彦作・葛飾北斎) ・滑稽本『串戯二日酔』(十返舎一九作・葛飾北斎画)・滑稽本『宮島参詣 続膝栗毛 二編』(十返舎一九作・北斎画)・肉筆画《鎮西八郎為朝図》(葛飾北斎戴斗画) 大英博物館蔵

文化九年(1812) 53歳 ・秋頃、名古屋に滞在。門人・牧墨僊宅に滞在中、『北斎漫画』の下絵三百余図を描くとされる。(『北斎漫画』初編序文より)・大阪、和州吉野、紀州、伊勢などへも旅するか。(『葛飾北斎伝』より) ・この頃、絵手本『略画早指南 前編』(北斎老人)ヵ 

文化十年(1813) 54歳 ・二月刊行の「作者画工見立番附」で北斎は行司の部に載る。門人では北馬(小結)、柳川重信(前頭)らが載る。・「亀毛蛇足」印を門人の北明に譲る。(肉筆画《鯉図》添書より)・読本『寒燈夜話 小栗外伝 初編』(小枝繁作・葛飾北斎)・地誌『勝鹿図志 手くりふね』(鈴木金堤編・北斎筆)・肉筆画《鯉図》(北斎) 埼玉県立博物館蔵・この頃、肉筆画《潮干狩図》(葛飾北斎)ヵ 大阪市立美術館蔵

文化十一年(1814) 55歳 ・この頃、摺物《山姥と金太郎》(北斎改戴斗筆)ヵ・この頃、摺物《おし鳥》(北斎改戴斗)ヵ ・絵手本『伝神開手 北斎漫画』(葛飾北斎筆)・この頃、絵手本『北斎写真画譜』(無款)ヵ ・この頃、艶本『喜能会之故真通』(無款)ヵ

文化十二年(1815) 56歳 ・春頃、蛇山に住むか。(『踊独稽古』序文より)・絵手本『伝神開手 北斎漫画 二編』(北斎改葛飾戴斗)・絵手本『伝神開手 北斎漫画 三編』(北斎改葛飾戴斗)・絵本『絵本 浄瑠璃絶句』(葛飾北斎筆)・絵本『踊独稽古』(葛飾北斎画編・藤間新三郎補正)

文化十三年(1816) 57歳 ・摺物《寿老人》(前北斎戴斗筆) ・絵手本『伝神開手 北斎漫画 四編』(北斎改葛飾戴斗)・絵手本『伝神開手 北斎漫画 五編』(北斎改葛飾戴斗)・絵手本『三体画譜』(北斎改葛飾戴斗画)

文化十四年(1817) 58歳 ・春頃、再び名古屋に滞在するか。(『葛飾北斎伝』り)・十月五日、名古屋西掛所(西本願寺別院)境内集会場広場で、百二十畳敷の半身達磨を描く。(『葛飾北斎伝』、『北斎大画即書細図』などより)・本年末頃、大阪、伊勢、紀州、吉野などへ旅したといわれる。(『葛飾北斎伝』より)・絵手本『画本早引 前編』(葛飾戴斗老人筆)・絵手本『伝神開手 北斎漫画 六編』(北斎改葛飾戴斗)・絵手本『伝神開手 北斎漫画 七編』(北斎改葛飾戴斗)

文化十五年・文政元年(1818) 59歳 ・二、三月頃、紀州へ旅したといわれる。(『葛飾北斎伝』より)・曲亭馬琴より鈴木牧之宛の書簡に北斎についての記述(ちとむつかしき仁、画料なども格別の高料、など)あり。(「鈴木牧之宛曲亭馬琴書簡」より)・この頃、大々判錦絵《総房海陸勝景奇覧》(葛飾前北斎改戴斗画)ヵ ・この頃、大々判錦絵《東海道名所一覧》(葛飾前北斎戴斗筆)ヵ ・絵手本『伝神開手 北斎漫画 八編』(北斎改葛飾戴斗)・絵手本『伝神開手 北斎画鏡』(葛飾北斎筆)

文政二年(1819) 60歳 ・本年、戴斗号を門人の斗円楼北泉に譲るか。(『画狂北斎』より)・絵手本『伝神開手 北斎漫画 九編』(北斎改葛飾戴斗)・絵手本『伝神開手 北斎漫画 十編』(北斎改葛飾戴斗)・絵手本『伝神開手 北斎画式』(葛飾戴斗筆)・絵手本『画本早引 後編』(前北斎戴斗筆)・この頃、肉筆画《鵜飼図》(葛飾戴斗筆)ヵ MOA美術館蔵

文政三年(1820) 61歳 ・年初の摺物に「為一」落款がみられる。(摺物《碁盤人形の図》などより)・一月、「江戸ゑいりよみ本戯作者画工新作者番付」に、北斎と豊国は同格で最上位とされる。・二月、浅草奥山興行の麦藁細工の下絵を描き、その見世物絵も描く。(『武江年表』より)・大判錦絵四枚続《麦藁細工見世物》(無款) 東京国立博物館蔵・摺物《空満屋連和漢武勇合三番之内》(北斎戴斗改葛飾為一筆) 東京国立博物館蔵

文政四年(1821) 62歳 ・十一月十三日、北斎の娘(四女阿猶か)没す。(誓教寺過去帳などより)・摺物揃物《楉垣連五番之内和漢画兄弟》(月癡老人為一筆)・摺物揃物《元禄歌仙貝合》(月癡老人為一筆)・この頃、艶本『万福和合神』 (無款)ヵ

文政五年(1822) 63歳 ・春頃、三世堤等琳宅に寄宿するか。(『北斎骨法婦集』より)・本年、北斎の長女と門人の柳川重信が離縁するという。(『葛飾北斎伝』よ)・摺物揃物《馬尽》(不染居為一筆) 

※文政六年(1823) 64歳 ・この頃より川柳の号に「卍」を用いる。・摺物《美人カルタ》(真行草之筆意北斎改為一画)・絵手本『伝神開手 一筆画譜』(武蔵北斎載(ママ)斗先生嗣意)・絵手本(前北斎為一先生図)  

文政七年(1824) 65歳 ・鈴木牧之の『夜職草』に交友者の一人として北斎の名が記される。・本年の川柳の会の北斎の句あり。(『誹風柳多留』より)・摺物《七代目市川団十郎 二代目岩井粂三郎》(かつしかの親父為一筆) ・絵手本『新形小紋帳』(前ほくさゐ為一筆)

文政八年(1825) 66歳 ・本年刊行の『柳多留』八十五篇に序文を寄せる。本篇に北斎の川柳十九句あり。・この頃、四つ切判錦絵《新板大道図彙》(無款※永寿堂の広告に「前北斎為一筆」と有) 東京国立博物館蔵・料理本『江戸流行 料理通 二編』(八百屋善四郎著・北斎改為一筆)

文政九(1826) 67歳 ・四月、柳新で画会を催すか。(『馬琴日記』より)・本年の川柳の会の北斎の句あり。(『誹風柳多留』より)・狂歌本『蓮華台』(六樹園撰・為一筆)・随筆考証本『還魂紙料』(柳亭種彦著・葛飾為一筆)

文政十年(1827) 68歳 ・本年か翌年、中風を患うが自製の薬で回復するという。(『葛飾北斎伝』より)・本年の川柳の会の北斎の句あり。(『誹風柳多留』より)・肉筆画《歌占図》(北斎為一敬画) 大英博物館蔵

文政十一年(1828) 69歳 ・一、二月、川柳の号に「万字」を用いる。・六月五日、北斎の妻こと女没す。(誓教寺過去帳などより)・本年の川柳の会の北斎の句あり。(『誹風柳多留』より) ・絵本『絵本庭訓往来 初編』(前北斎為一写)・この頃、狂歌本『花鳥画賛歌合』(春秋庵永女ほか撰・月癡老人為一筆)

文政十二年(1829) 70歳 ・一月、著名人を水滸伝の登場人物に見立てた番付で別格扱いとされる。・春頃、孫(柳川重信の子)が度々悪事を行い、北斎は尻拭いをしたという。(『葛飾北斎伝』より)・六月二十一日、馬琴が北斎の絵本『忠義水滸伝画本』について、「画ハよく出来候へ共、杜撰甚し」と評する。(『馬琴日記』より)・本年の川柳の会の北斎の句あり。(『誹風柳多留』より)・絵本『忠義水滸伝画本』(葛飾前北斎為一老人画)・絵本『新編水滸画伝 二編前帙』(高井蘭山作・北斎戴斗老人画)

文政十三年・天保元年(1830) 71歳 ・一月、放蕩の孫を父親に引き渡し、上州高崎より奥州へ連れて行かせる。(『葛飾北斎伝』より)・一月、浅草明王院地内五郎兵衛店に住むか。(『葛飾北斎伝』より)・本年の川柳の会の北斎の句あり。(『誹風柳多留』より)・この頃、大判錦絵揃物《冨嶽三十六景》(北斎改為一筆ほか)刊行始まるヵ ・この頃、森屋治兵衛版・中判藍摺絵揃物(前北斎筆)ヵ・摺物《汐汲み図》(北斎改為一筆) 太田記念美術館蔵

天保二年(1831) 72歳 ・本年の西村屋与八の広告に《冨嶽三十六景》が見える。(柳亭種彦『正本製』広告より)・本年の川柳の会の北斎の句あり。(『誹風柳多留』り)・大々判錦絵《鎌倉 江ノ嶋 大山 新板往来双六》(柳亭種彦撰・前北斎為一図)・この頃、中判錦絵揃物《百物語》(前北斎筆)ヵ ・この頃、大々判錦絵《奥州塩竈松蔦之畧図》(前北斎為一筆)ヵ・狂歌本『女一代栄花集』(秋長堂老師ほか撰・応需七十二翁前北斎為一筆) 

天保三年(1832) 73歳 ・閏十一月二十八日、もと娘婿の柳川重信が没する。(『馬琴日記』より)・本年の西村屋与八の広告に《冨嶽三十六景》が見える。(馬琴『千代楮良著聞集』広告より)・本年の川柳の会の北斎の句あり。(『誹風柳多留』より)・合巻『花雪吹縁柵』(相州磯部作・前北斎為一[表紙絵を国芳と合筆])・この頃、大判錦絵《琉球八景》(前北斎為一筆)ヵ

天保四年(1833) 74歳 ・本年の西村屋与八の広告に《諸国瀧廻り》が見える。(種繁『改色団七島』広告より)・本年の川柳の会の北斎の句あり。(『誹風柳多留』より)・この頃、大判錦絵揃物《諸国瀧廻り》(前北斎為一筆)ヵ ・この頃、長大判錦絵揃物《詩哥写真鏡》(前北斎為一筆)ヵ ・団扇絵判錦絵《狆》(前北斎為一筆) 太田記念美術館蔵・摺物(大小)《宝船》(前北斎為一筆)・絵本『唐詩選画本 五言律』(高井蘭山著・前北斎為一画)・合巻『出世奴小万之伝』(柳亭種彦作・前北斎為一[表紙絵を国直と合筆])

天保五年(1834) 75歳 ・相州浦賀に潜居するといわれる。また、翌年春のことともいう。(『葛飾北斎伝』より)・本年までに転居の回数は五十六回に及ぶという。(『葛飾北斎伝』より)・本年の西村屋与八の広告に《諸国名橋奇覧》が見える。(柳亭種彦『邯鄲諸国物語 近江の巻』より)・この頃、大判錦絵揃物《諸国名橋奇覧》(前北斎為一筆)ヵ ・長大判錦絵《桜に鷹》(前北斎為一筆)すみだ北斎美術館蔵・絵手本『伝神開手 北斎漫画 十二編』(前北斎為一)・絵本『絵本忠経』(高井蘭山著・葛飾前北斎為一老人画)・絵本『富嶽百景 初編』(七十五齢前北斎為一改画狂老人卍筆) 

天保六年(1835) 76歳 ・二月中旬、相州浦賀より江戸日本橋小林新兵衛(嵩山房)へ手紙を送る。(『葛飾北斎伝』より)・三月、西村屋与八・祐蔵の広告(『富嶽百景』二編)に北斎の「絵本肉筆画帖」の記載あり。(『富嶽百景 二編』広告より)・相州、豆州へ旅する。(絵本『絵本和漢誉』署名より)・この頃、大判錦絵揃物《百人一首うばがゑとき》(前北斎卍)ヵ ・この頃、団扇絵判錦絵《群鶏》(前北斎為一筆)ヵ 東京国立博物館蔵・絵本『富嶽百景 二編』(七十六齢前北斎為一改画狂老人卍筆)・この頃、版下絵《百人一首うばがゑとき》(前北斎卍)ヵ ・この頃、肉筆画《肉筆画帖》(前北斎為一改画狂老人卍筆)ヵ 

天保七年(1836) 77歳 ・一月十七日、相州浦賀より江戸日本橋小林新兵衛(嵩山房)へ手紙を送る。(『葛飾北斎伝』より)・三月頃、深川万年橋近辺に住むか。絵本『和漢 絵本魁』自序より)・夏頃、浦賀より江戸日本橋小林新兵衛(嵩山房)へ手紙を送る。(『葛飾北斎伝』より)・絵直しや『肉筆画帖』を描き、大いに利を得たという。(『葛飾北斎伝』より)・『広益諸家人名録』(天保丙申秋校正)に居所不定と記載される。・絵手本『諸職絵本 新鄙形』(齢七十七 前北斎為一改画狂老人卍筆)・絵本『和漢 絵本魁』(齢七十六前北斎為一改画狂老人卍筆) ・絵本『絵本武蔵鎧』(齢七十七前北斎画狂老人卍筆) ・絵本『唐詩選画本 七言律』(高井蘭山著・画狂老人卍翁筆)

天保八年(1837) 78歳 ・地誌『日光山志』(植田孟縉編集・齢七十二画狂老人卍筆)

天保九年(1838) 79歳 ・本年刊行の『新編水滸画伝』に「病床ノ画」と書かれた挿絵が数図あり。・読本『新編水滸画伝 五編』(高井蘭山作・前北斎為一老人画)・読本『新編水滸画伝 六編』(高井蘭山作・前北斎為一老人画)

天保十年(1839) 80歳 ・本所石原片町と本所達磨横町に住むといわれる。(『葛飾北斎伝』より)・達磨横町では初めて火災に遭い、多くの縮図を消失するといわれる。(『葛飾北斎伝』より)・本年頃にも肉筆の画帖を描くか。(ゴンクール『HOKOUSAÏ』より)・肉筆画《西瓜図》(画狂老人卍筆 齢八十) 宮内庁三の丸尚蔵館蔵・肉筆画《貴人と官女図》(画狂老人卍筆 齢八十歳) すみだ北斎美術館蔵・肉筆画《春秋山水図》(画狂老人卍筆 齢八十) 出光美術館蔵・肉筆画《春日山鹿図》(画狂老人卍筆 齢八十歳) 公益財団法人氏家浮世絵コレクション・鎌倉国宝館

天保十一年(1840) 81歳 ・房総方面へ旅するか。(錦絵《唐土名所之絵》署名より) ・この頃、大々判錦絵《唐土名所之絵》(総房旅客 画狂老人卍齢八十一)ヵ・肉筆画《若衆図》(画狂老人卍筆 齢八十一) 大英博物館蔵・肉筆画《若衆文案図》(画狂老人卍筆 齢八十一) 公益財団法人氏家浮世絵コレクション・鎌倉国宝館

天保十二年(1841) 82歳 ・絵手本『絵本早引 名頭武者部類』(北斎改葛飾為一筆)・肉筆画《雲龍図》(試筆八十二翁卍)

天保十三年(1842) 83歳 ・本所亀沢町に住むという。・年末から翌年にか唐獅子や獅子舞を描いた「日新除魔」を多数描く。・この頃、地誌『花の十文』(橘園樹早苗著・八十二叟画狂老人卍筆)ヵ・肉筆画《日新除魔》 九州国立博物館、一般財団法人 北斎館ほか蔵

天保十四年(1843) 84歳 ・四月二十一日、信州小布施の高井鴻山へ、祭屋台天井絵の下絵が進まないこと、阿栄の旅行手形が取れないこと、来春三月に訪問したいことを認めた手紙を送る。(『高井鴻山宛北斎書簡』より)・八月九日、信州小布施の高井鴻山へ、祭屋台天井絵の鳳凰下図に関する手紙を送る。(『高井鴻山宛北斎書簡』より)・本年までに北斎の転居は六十回に及ぶという。(『葛飾北斎伝』より)・肉筆画《日新除魔》 九州国立博物館、一般財団法人 北斎館ほか蔵・肉筆画《桜に鷲図》(八十四老卍筆) 公益財団法人氏家浮世絵コレクション・鎌倉国宝館・肉筆画《雪中張飛図》(齢八十四歳 画狂老人卍筆) 公益財団法人氏家浮世絵コレクション・鎌倉国宝館・肉筆画《文昌星図(魁星図)》(八十四老卍筆)・肉筆画《田植図》(八十四老卍筆) 佐野美術館蔵・肉筆画《南瓜花群虫図》(八十四老卍筆) すみだ北斎美術館蔵

天保十五年・弘化元年(1844) 85歳 ・一月一日、肉筆画「大黒天図」(現存不明)に「宝暦十庚辰九月甲子ノ出生」と署名する。・二月頃、向島小梅村に住む。(嵩山房への稿料受取より)・三月頃、信州小布施へ旅するか。(『高井鴻山宛北斎書簡』より)・本年の長寿者番付に北斎が載る。・本年、浅草寺前に住むか。(斎藤月岑『増補浮世絵類考』より)・肉筆画《鍾馗騎獅図》(画狂老人卍筆 齢八十五歳) 出光美術館蔵・肉筆画《月みる虎図》(八十五老卍筆)・肉筆画《鼠と小槌図》(画狂老人卍筆 齢八十五歳) ・肉筆画《狐の嫁入図》(画狂老人卍筆 齢八十五歳)・この頃、肉筆画《朱描鍾馗図[画稿]》(無款)

弘化二年(1845) 86歳 ・読本『釈迦御一代記図会』(山田意斎作・前北斎卍老人繍像)・向島牛嶋神社扁額《須佐之男命厄神退治之図》(前北斎卍筆 齢八十六歳)※関東大震災で焼失

弘化三年(1846) 87歳 ・春頃、西両国に住むか。(笠亭仙果書簡より)・十二月頃、北斎の病気が再発するか。(神山熊三郎宛北斎書簡より)・読本『源氏一統志』(松亭中村源八郎保定輯・前北斎為一老人八右衛門画)・肉筆画《羅漢図》(八十七老卍筆) 太田記念美術館蔵・肉筆画《朱描鍾馗図》(八十七老卍筆) メトロポリタン美術館蔵・肉筆画《朱描鍾馗図》(所随老人卍筆 齢八十七歳) すみだ北斎美術館蔵・肉筆画《双鶴図》(画狂老人卍筆齢 八十七歳)

弘化四年(1847) 88歳 ・この頃「三浦屋八右衛門」と称す。・二月頃、田町一丁目に住むか。(神山熊三郎宛北斎書簡より)・天保十三、十四年の「日新除魔」二百余図を松代藩士・宮本慎助に与える。・肉筆画《向日葵図》(八十八老卍筆) シンシナティ美術館蔵・肉筆画《雷神図》(八十八老卍筆) フリーア美術館蔵・肉筆画《柳に燕図》(八十八老卍筆) すみだ北斎美術館蔵・肉筆画《流水に鴨図》(齢八十八卍) 大英博物館蔵・肉筆画《赤壁の曹操図》(八十八老卍筆)

弘化五年・嘉永元年(1848) 89歳 ・六月五日、門人・本間北曜と浅草の仮宅にて面談する。(『西肥長崎行日記』より)・六月八日、再訪した北曜に、長崎でキタコ(うつぼ)などの魚の写生を依頼し、肉筆画《鬼図》を贈る。(『西肥長崎行日記』より)・十一月頃、河原崎座の顔見世興行を見るか。(『花江都歌舞伎年代記』より)・本年、関根只誠と四方梅彦が浅草聖天町遍照院境内の北斎の仮宅を訪れる。この時、北斎の転居は九十三度目であったという。(『葛飾北斎伝』より)・大々判錦絵《地方測量之図》(応需 齢八十九歳卍老人筆)・絵手本『画本彩色通 初編、二編』(画狂老人卍筆) ・肉筆画《鬼図》(齢八十九歳画狂老人卍筆) 佐野美術館蔵・肉筆画《狐狸図》(卍老人筆 齢八十九歳) 個人蔵

嘉永二年(1849) 90歳 ・春頃、病床に臥す。(『葛飾北斎伝』より)・四月八日、暁七ツ時、浅草聖天町遍照院境内仮宅に没す。辞世の句は「飛と魂でゆくきさんじや夏の原」。(『北岑宛北斎死亡通知』[120]、『葛飾北斎伝』より)・同日、娘の阿栄が父の死亡通知を門人・北岑に送る。(『北岑宛北斎死亡通知』 )・四月十九日、朝四ツ時より浅草誓教寺にて葬儀が行われる。法名は「南牕院奇誉北斎居士」。(『北岑宛北斎死亡通知』より) ・絵本『絵本孝経』(高井蘭山著・東都葛飾前北斎為一翁画図)・この頃、絵手本『伝神開手 北斎漫画 十三編』(葛飾為一老人筆)ヵ・肉筆画《扇面散図》(九十老人卍筆) 東京国立博物館蔵・肉筆画《雨中の虎図》(九十老人卍筆) 太田記念美術館蔵・肉筆画《雲龍図》(九十老人卍筆) ギメ美術館蔵・肉筆画《富士越龍図》(宝暦十庚辰ノ年出生 九十老人卍筆) 一般財団法人 北斎館蔵
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北斎の狂句(その九) [北斎の狂句]

その九 月並ハ浚ふ天狗に引く河童

月並(つきなみ)ハ(は)浚(さら)ふ天狗に引く河童 卍 文政一(『柳多留百一篇』)

●月並(つきなみ)=月並みは、元々「毎月」「月ごと」「毎月決まって行うこと」などを意味する語であった。そこから、和歌・連歌・俳句などで行うなう月例の会を「月並みの会」と言うようになり、俳句の世界では「月並俳諧」という語も生まれた。月並みが「平凡でつまらないこと」を意味するようになったのは、正岡子規が俳句革新運動で、天保期以後の決まりきった俳諧の調子を批判して、「月並調(月並俳句)」と言ったことによる。(「語源由来辞典」)
●浚(さら)ふ天狗=天狗攫い=天狗攫い(てんぐさらい)は、神隠しの内、天狗が原因で子供が行方不明となる事象をいう。天狗隠し(てんぐかくし)ともいう。
●引く河童=水辺を通りかかったり泳いだりしている人を水中に引き込み溺死させたり、尻子玉/尻小玉(しりこだま)を抜いて殺したりするといった悪事を働く描写も多い。尻子玉とは人間の肛門内にあると想像された架空の臓器で、河童は、抜いた尻子玉を食べたり、竜王に税金として納めたりするという。ラムネ瓶に栓をするビー玉のようなものともされ、尻子玉を抜かれた人は「ふぬけ」になると言われている。「河童が尻小玉を抜く」という伝承は、溺死者の肛門括約筋が弛緩した様子が、あたかも尻から何かを抜かれたように見えたことに由来するとの説もある。人間の肝が好物ともいうが、これも前述と同様に、溺死者の姿が、内臓を抜き去ったかのように見えたことに由来するといわれる。(「ウィキペディア」)
●点取俳諧(てんとりはいかい)=点者に句の採点を請うて,点の多さを競う俳諧。芭蕉も《三等の文》(元禄5年曲水宛書簡)で〈点取に昼夜をつくし,勝負に道を見ずして走りまはる〉と言っているように,即吟即点が流行していた。其角は〈半面美人〉の点印を洒落風俳諧の高点句に印し,点取り競争をあおった。とくに享保期(1716‐36)の江戸,京都,大坂で流行し,百韻を中心に連衆(れんじゆ)の点を計算して順位を定め,景品もそえるなどして時好に投じた。(「出典:「平凡社世界大百科事典 第2版」)

句意=月並みの、一般的な日常用語ですると、「悪さをすると、天狗に浚われるとか、河童に引かれる」ということになるが、点取り俳諧の、卍らの月次狂句連の用語ですると、「悪さ(俳諧・狂句)をすると、『勝ち組』は『高点句』を浚って『天狗』様々の有頂天となり、『負け組』は『水中にもぐった河童』のように、こそこそと姿をくらましてしまう」ということにあいなる。

(画像)→ http://yahantei.blogspot.com/2022/11/blog-post_8.html

「天狗図」(部分)」 葛飾北斎 江戸時代・19世紀 個人蔵 (「大妖怪展 土偶から妖怪ウォッチまで」江戸東京博物館)
(画像)→ http://yahantei.blogspot.com/2022/11/blog-post_8.html

「北斎漫画. 12編」(「葛飾北斎 画」・明11・出版者=片野東四郎)(「国立国会図書館デジタルコレクション」) → (コマ番号 8/34)

(画像)→ http://yahantei.blogspot.com/2022/11/blog-post_8.html

「北斎漫画. 3編」(「葛飾北斎 画」・明11・出版者=片野東四郎)(「国立国会図書館デジタルコレクション」) → (コマ番号 28/37)

(画像)→ http://yahantei.blogspot.com/2022/11/blog-post_8.html

「北斎漫画. 3編」(「葛飾北斎 画」・明11・出版者=片野東四郎)(「国立国会図書館デジタルコレクション」) → (コマ番号 30/37)

一茶の「天狗」の句(十七句)

http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi

1 花咲(さく)や散(ちる)や天狗の留主事(ごと)に 春/植物/花/ 文政句帖/文政8
2 天狗衆の留主(の)うち咲く山ざくら  春/ 植物/桜/ 文政句帖/文政8
3 俳諧の天狗頭(がしら)が団扇(うちわ)かな 夏/人事/ 団扇/文政句帖/文政5
4 天狗はどこにて団扇づかひ哉 夏/人事/団扇/文政句帖文政8
5 天狗衆は留主ぞせい出せ時鳥 夏/人事/時鳥/文政句帖/文政8
6 大天狗の鼻やちよつぽりかたつむり 夏/ 動物/蝸牛/文政句帖/文政7
7 末枯(うらがれ)や木の間を下る天狗面  秋/植物/末枯/八番日記/ 文政4
8 末枯れや木の間を下る天狗哉 秋/植物/末枯/梅塵八番/
9 栃餅や天狗の子供など並(ならぶ)  秋/植物/栃の実/八番日記/文政4
10 栃餅や天狗の子分など並ぶ 秋/植物/栃の実/梅塵八番/
11 くらま山茸(きのこ)にさい(へ)も天狗哉 秋 /植物/茸/八番日記/文政4
12 天狗茸(だけ)立(たち)けり魔所の入口に 秋 /植物/茸/八番日記/文政4
13 天狗茸立けり魔所の這入(はいり)口    秋/ 植物/茸/ 文政句帖
14 此(この)おくは魔所とや立(たて)る天狗茸 秋/植物/茸/文政句帖/文政7
15 かつらぎや小春つぶしの天狗風 冬/時候/ 小春(小六月)/ 文政句帖/文政7
16 鳴き虫(を)つれて行くとや大天狗 冬/人事/神の旅/文政句帖/文政7
17 大天狗小天狗とて冬がれぬ 冬/植物/冬枯れ/七番日記/文化11

一茶の「河童」(河太郎・川太郎・猿猴・水神・河伯・河童子・水虎など)の句 =無

http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi

 「芭蕉・蕪村・一茶」の中で、蕪村のみ、次の「河童(かわたろ)」の一句がある。

河童(かはたろ)の恋する宿や夏の月    蕪村(『蕪村句集』)

『 夏の月(夏)。カッパ。「かわたろ」は京都地方の呼称(『俚言集覧』)。「かしらの毛赤うして頂に凹なる皿あり。(中略)或は恠(あやし)みをなし婦女を姦淫す」(『物類称呼』)。句意=夏の夜の夢幻的な淡い月光に照らされた水辺の家。河童がしきりに様子をうかがっているような、中には美しい娘がいるのだろう。』(『蕪村全集一 発句』p565)

(参考)芥川龍之介の『水虎晩帰之図』周辺

(画像)→ http://yahantei.blogspot.com/2022/11/blog-post_8.html

『水虎晩帰之図(芥川龍之介筆)』(長崎歴史文化博物館蔵)

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0704/index1.html

≪ 芥川は東検番の名花とうたわれた芸妓・照菊(杉本わか・後年料亭「菊本(きくもと)」の女将)に、河童の絵を銀屏風に描いて与えている。数多く河童を描いた芥川だが、乳房のある『水虎晩帰之図』はこれだけで、最大の傑作と言われるものだ。

橋の上ゆ(から)胡瓜(きゅうり)なくれば(投ぐれば)
水ひひき(響き)すなわち見ゆる
かふろ(禿 おかっぱ)のあたま
   お若さんの為に
    我鬼(がき・龍之介の俳号)酔筆   (以下略)     ≫

 この「水虎(すいこ)」=「河童(かっぱ)」は、「乳房のある『水虎晩帰之図』」で、芥川龍之介(俳号=餓鬼)が描いた「河童図」の中でも唯一の、雌の河童図のようなのである。

「芥川がいくつも描いた河童の絵」(出典:『芥川龍之介(新潮日本文学アルバム)』)
「澄江堂(主人)」=芥川龍之介の号(庵号)=書斎の扁額「澄江堂」による。
https://designroomrune.com/magome/daypage/06/0620.html


(画像)→ http://yahantei.blogspot.com/2022/11/blog-post_8.html

「娑婆(しゃば)を逃れる河童の図」(昭和二年=一九二七・七・二四自殺する数日前の作)
https://www.shunyodo.co.jp/blog/2020/11/akutagawa_ryunosuke_to_shunyodo_5/

※橋の上ゆ/胡瓜なくれ/は水ひひき/すなはち/見ゆる/禿の頭(龍之介)

 ここで、この龍之介の絶筆とも思われる、この「娑婆(しゃば)を逃れる河童の図」の、この「橋の上ゆ/胡瓜なくれ/は水ひひき/すなはち/見ゆる/禿の頭(龍之介)は、先の、龍之介の、長崎での、その『水虎晩帰之図(芥川龍之介筆)』(長崎歴史文化博物館蔵)に描かれている「雌河童(?)」の脇に、「餓鬼」の号で賛をしている、その「橋の上ゆ胡瓜なくれは水/ひひきすなわち見ゆる/かふろのあたま(餓鬼)」と、全く、同じものなのである。
 そして、その龍之介の長崎旅行は、「大正11年(1922)4月25日から5月30日まで、長崎に一ヶ月間滞在」中のもので、すなわち、この作品(短歌)の初出は、大正十一年(一九二二)にまで遡ることになる。
 その長崎旅行中の、その六月に公表された、龍之介の「長崎」と題する「詩」らしきものが、同上のアドレスで紹介されている。

≪菱形の凧(たこ)。
サント・モンタニの空に揚つた凧。
うらうらと幾つも漂つた凧。
路ばたに商ふ夏蜜柑やバナナ。
敷石の日ざしに火照(ほて)るけはひ。
町一ぱいに飛ぶ燕。
丸山の廓の見返り柳。
運河には石の眼鏡橋。
橋には往来の麦稈帽子。
---忽(たちま)ち泳いで来る家鴨(あひる)の一むれ。
白白と日に照つた家鴨の一むれ。
南京寺の石段の蜥蜴(とかげ)。
中華民国の旗。
煙を揚げる英吉利(イギリス)の船。
『港をよろふ山の若葉に光さし……』顱頂(ろちやう)の禿げそめた斎藤茂吉。ロティ。
沈南蘋(しんなんぴん)。
永井荷風。
最後に『日本の聖母の寺』その内陣のおん母マリア。
穂麦に交じつた矢車の花。
光のない真昼の蝋燭の火。
窓の外には遠いサント・モンタニ。
山の空にはやはり菱形の凧。
北原白秋の歌つた凧。
うらうらと幾つも漂つた凧。≫ (出典:「ナガジン」)


 これらの世界は、下記のアドレスなどで逍遥したきものと、全く、同一方向での世界ということになる。

• 南蛮美術(20)
• シーボルト・川原慶賀そして北斎(25)

(画像)→ http://yahantei.blogspot.com/2022/11/blog-post_8.html

「銭座小学校カッパの壁画」
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken/hakken1512/index.html
≪ 銭座小学校カッパの壁画〝なかよし〟
崑さんの出身校です。「友だちに対する思いやりを大切にすることが、自分の命を大切にすること」をテーマにした六コマ漫画がそのまま壁画になっています。≫

(画像)→ http://yahantei.blogspot.com/2022/11/blog-post_8.html

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken/hakken1512/index.html
≪「かっぱっぱルンパッパ かっぱ黄桜かっぱっぱ♪」
 ご存知の方も多いと思います、酒造メーカーのCMソング『かっぱの唄<黄桜>』の歌いだしの部分です。「黄桜」といえば「かっぱ」というほど、そのイメージが定着していますが、このブランド・キャラクターを生み出したのが長崎出身の漫画家の清水崑(こん)さん。今回は、戦前・戦中・戦後という激動の時代を、筆一本でしなやかに生き抜いた「清水崑の世界」をひも解いてみたいと思います。≫(出典:「ナガジン」)

(余聞)「河童ものがたり」(「餓鬼→崑→木久扇) 

(画像)→ http://yahantei.blogspot.com/2022/11/blog-post_8.html

(左図)昭和三十八年頃、高輪時代の清水家」での「木久扇」(?)
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken/hakken1512/index.html
(右図)『木久蔵錦絵』 木久扇師匠が独自に工夫した多色刷りの絵画「木久蔵錦絵」 (C)TOYOTA ART
https://spice.eplus.jp/articles/265434/images/818453
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北斎の狂句(その八) [北斎の狂句]

その八 酒なくて見れハさくらも河童の屁  

酒なくて見れハ(ば)さくらも河童の屁  錦袋 文政二(『柳多留七十一篇』)

●「酒なくてなんの己(おのれ)が桜かな」の捩り=「花より団子、楽しくなければ風流を気取っても仕方がない。とにかくまあ一杯というだけのこと。ただし、桜に「おのれ」と呼びかけているのだから、すでに酔っているのかもしれない。」(出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」)

句意=花見に酒が無いと、ご覧なさい、この爛漫と咲き誇っている桜の花も、そうそう、「河童の屁」(「水中の屁は勢いがない」=「屁の河童」)のように、一寸も見栄えがしないね!!! これは、これ、景気づけに、俺さま、卍の、「デッカク、クセエー、クセエー屁(おなら)」をくらましてやるか!!!

一茶の「花見の句(六十句)

http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi?group=hirarajp&dbi=20140103235455_20140104001012&s_entry=0&se0=6&sf0=0&sk0=%89%d4%8c%a9

1 剃捨(すて)て花見の真似やひのき笠    春/植物/花/寛政句帖/寛政4
2 蛇出て兵者(つわもの)を撰(え)る花見哉 春/植物/花/寛政句帖/ 寛政5
3 高山や花見序(ついで)の寺参り 春/ 植物/花寛政句帖/ 寛政6
4 桃柳庇(ひさし)ひさしの花見かな    春/ 植物/花/ 西国紀行/寛政7
5 活(いき)て居る人をかぞへて花見哉 春/植物/花/西紀書込/ 寛政中
6 片脇に息をころして花見哉 春/植物/花/享和句帖/享和3
7 いづかたの花見なるべし野辺の雨 春/植物/花/文化句帖/ 文化1
8 花見るもあぶなげのない所哉 春/植物/花/文化句帖/文化2
9 貧乏人花見ぬ春はなかりけり 春/植物/花/文化句帖/文化4
10又しても橋銭かする花見哉 春/植物/花/文化句帖/ 文化5
11けふこそは地獄の衆も花見哉 春/植物/花/七番日記/ 文化9
20世(の)中は地獄の上の花見哉 春/植物/花/七番日記/文化9
21大原や丁(字)に寝たる花見連(づれ)    春/植物/花/ 七番日記/文化10
22柴門(しばかど)やしもくに寝たる花見連  春/ 植物/花/ 遺稿/
23女供はわらん(ぢ)がけの花見哉 春/ 植物/花/ 七番日記/文化10
24わらんじのぐあひ苦になる花見哉 春/ 植物/花/ 浅黄空
25天邪鬼(あまのじゃく)踏れたまゝで花見哉 春/ 植物/花/ 七番日記/文化11
26花見るも役目也けり老にけり 春/ 植物/花/ 七番日記/文化11
27君がため不性ふしように花見哉        春/ 植物/花/ 七番日記/文化12
28けふは花見まじ未来がおそろしき 春/植物/花/七番日記/文政1
29花見まじ 未来の程がおそろしき 春/ 植物/花/ 七番日記文政1
30けふは花見るや未来がおそろしき 春/ 植物/花/ 浅黄空他
31ない袖を振て見せみせ花見哉        春/ 植物/花/ 七番日記/文政1
32赤髪にきせるをさして花見哉 春/ 植物/花/ 八番日記/文政3
33親と子がぶんぶんに行(ゆく)花見哉    春/ 植物/花/ 梅塵八番/文政3
34草庵に来てはこそこそ花見哉        春/ 植物/花/ 八番日記/文政3
35草庵に来てはくつろぐ花見哉 春/ 植物/花/ 梅塵八番
36団子など商ひながら花見哉 春/植物/花 /八番日記/文政4
37どこそこや点(てん)かけておく花見の日   春/植物/花/八番日記/文政4
38何事もなくて花見る春も哉 春/ 植物/花/ 八番日記/文政4
39何者(の)花見や脇よれわきよれと    春/ 植物/花/ 八番日記/文政4
40花見んと致せば下にした哉        春/ 植物/花/ 八番日記/文政4
41今の世や花見がてらの小盗人(こぬすびと ) 春/ 植物/花/ 文政句帖/文政5
42京迄は一筋道ぞ花見笠 春/ 植物/花/ 文政句帖/文政5
43ことしきりなどゝいふ也花見笠 春/ 植物/花/ 文政句帖/文政5
44さそはれてきり一ぺんの花見哉   春/植物/花/文政句帖/文政5
45寝て待(まつ)や切手(きりて)をもたぬ花見衆  春/植物/花/文政句帖/文政5
46花見せん娑婆(しゃば)逗留の其中(そのうち)は 春/植物/花/文政句帖/文政5
47迷子札(ふだ)爺(じい)もさげて花見笠  春/植物/花/文政句帖/文政5
48焼飯(やきめし)をてんで(に)かぢる花見哉 春/植物/花/文政句帖/文政5
49馬乗(うまのり)や花見の中を一文字  春/植物/ 花/文政句帖/文政7
50 江戸声や花見の果(はて)のけん花かひ     春/植物/ 花/文政句帖/文政7
51二度目(には)病気をつかふ花見哉 春/植物/ 花/文政句帖/文政7
52次の日は病気をつかふ花見哉 春/植物/花/文政句帖/文政8
53二仏(にぶつ)の中間(ちゅうげん)に生れて花見哉 春/植物/花/文政句帖/文政
54花見るも銭(ぜに)をとらるゝ都哉 春/植物/花/文政句帖/文政7
55ぶらぶらと不断の形(なり)で花見哉     春/植物/花/文政句帖/文政7
56宮人(みやびと)は歯に絹きせる花見哉     春/植物/花/文政句帖/文政7
57あつさりとあさぎ頭巾(ずきん)の花見哉   春/植物/花/文政句帖/文政8
58今の世や猫も杓子も花見笠           春/植物/花/文政九十句写/文政9
59おどされた犬のまねして花見哉 春/植物/花/文政九十句写/文政9
60ぢゝ犬におどされて散る花見哉    春/植物/花/文政九十句写/文政9

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冨嶽三十六景《東海道品川御殿山ノ不二》(「東京富士美術館」蔵)
葛飾北斎 (1760-1849) 天保元−天保3年(1830-32)頃 木版多色刷 25.3×37.7cm
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/252959
『(解説)
品川区北品川町三丁目あたりとされる。現在はこの丘陵は取り壊されて地名に残るだけとなったが、広重の『名所江戸百景』には、その形がよくわかる版図がある。江戸時代に桜の木が植樹され、花見の名所として広く知られ大いに賑わったようである。この図にも、画面左下に見える品川の宿に面した御殿山の丘陵で、花見を楽しむ人々の情景が描かれている。酒を酌み交わす者、稚児を肩車する男や背負う女、扇を手におどける男たち。女をからかう坊主頭の男が背負う風呂敷には、ここにも山型に巴紋の永寿堂の家紋が入っている。この男、「五百らかん寺さざゐ堂」にも登場した男と同一人物のようだ。品川沖に見える海には版木の木目を利用した波の表現が巧みに施されている。北斎の制作に応えた彫師の力量も、また素晴らしい。この版は木々に藍色を配したバージョンだが、木々の緑が鮮やかなものもある。』(「文化遺産オンライン」)

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「冨嶽三十六景《東海道品川御殿山ノ不二》」(部分拡大図)
「女をからかう坊主頭の男が背負う風呂敷に巴紋の永寿堂の家紋が入っている。」

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冨嶽三十六景《五百らかん寺さゞゐどう》(「東京富士美術館」蔵)
葛飾北斎 (1760-1849) 天保元−天保3年(1830-32)頃 木版多色刷 25.3×37.7cm
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/199361
『(解説)
深川(江東区大島3丁目)にあった五百羅漢寺の三階からの眺め。螺旋状の階段を登ることから栄螺堂と呼ばれ、その眺望は人気があったという。人々の視線や手のしぐさ、床の板目や屋根の勾配など、西洋の遠近法でいうところの消失点が富士に集中しているところは、いかにも北斎らしい試みが伺える。左端の老人が背負った風呂敷には、山型に巴紋の永寿堂の家紋が見える。初摺りのイメージの版には左下に改印(極)、版元印(永寿堂)があり、川面のぼかしに版木の木目を使った表現が鮮明に見え、稚児の着物地の柄の出し方や、墨色の強弱に違いが見られる。』(「文化遺産オンライン」)

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/11/blog-post_4.html

「冨嶽三十六景《五百らかん寺さゞゐどう》」(部分拡大図)
「富士山を指さしている男の風呂敷に巴紋の永寿堂の家紋が入っている。」

(参考)「をこ(痴・烏滸・尾籠)=ばかげたこと・ばかばかしい」絵の系譜

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《放屁合戦絵巻》一巻(部分)31.0×706.5cm 室町時代 文安6年(1449)写(「サントリー美術館」蔵)

https://www.suntory.co.jp/sma/collection/tobira/06/

『 《放屁合戦絵巻》』―失われた「をこ絵」の残像―
 「勝絵(かちえ)」と呼ばれる男の陽物の大小や屁の威力を競う話のうち、後者のみをまとめた絵巻です。巻末の奥書より、文安6年(1449)に京都・仁和寺にあった絵巻を模写したものであることがわかりますが、すでに原本は失われ、当館所蔵の一巻以外に古い模本の存在は確認されていません。
内容は、法師たちが木の実などを食べて腹にガスを溜め、放屁競べを繰り広げるという奇想天外なもの。最後の一戦では、下半身を露わにした老齢の尼公(あまぎみ)と一糸まとわぬ法師が、朱扇を射落とさんと尻を突き出して屁を放っています。実はこの尼公、放屁名家の正統な後継者であり、身体の中から妙音を発する放屁の珍芸によって長者になった、お伽草子『福富草紙』で名高い高向秀武の娘だと自ら名乗っています。そのような真打ち登場に、挑戦者の法師は息むあまり手にも力が入っています。
 屁・屁・屁……と尾籠(びろう)な情景が展開する本絵巻ですが、この「尾籠」という言葉が、もともと「をこ」という古語の当て字で、やがて音読みされるようになった語であることをご存知でしょうか。「をこ(痴・烏滸・尾籠)」とは、「おろかなこと」「ばかげたこと」という意味で、かの有名な《鳥獣人物戯画》誕生よりも早く、11世紀には「をこ絵」と呼ばれる滑稽を積極的に目指した戯画の一ジャンルが成立していたことが知られます。
 平安時代末の編集とされる『今昔物語集』には、機知に富む「をこ絵」の名手として、比叡山の高僧・義清阿闍梨(ぎせいあじゃり)に関する興味深い話が出てきます。すなわち、義清は人から絵を頼まれ長い巻紙を渡されると、紙の端に弓を射る人物と、もう一方の端に的だけを描き、あとは間に長々と一筋の線を引いた。絵の注文主は紙の無駄だと腹を立てたが、義清の絵は、ただ一筆で対象を生き生きと表現した見事なものであった、と言います。
 残念ながら、『今昔物語集』に語られるような「をこ絵」の作例は伝来しませんが、現存作品の中で最も近い表現を認められるのが《放屁合戦絵巻》だと言えるのです。義清も、この屁の軌跡のように、飛んでいく矢を勢いよく墨線で表わしたのでしょう。《放屁合戦絵巻》が尾籠な絵巻だからと敬遠せず、その表象に「をこ絵」の残像を見るのもツウな鑑賞です。(上野友愛稿)』(出典:『サントリー美術館ニュース』vol.258, 2015.11, p.6)

「コレクションデータベース 放屁合戦絵巻(ほうひ かっせん えまき)

https://www.suntory.co.jp/sma/collection/data/detail?id=642

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/11/blog-post_4.html

「屁合戦絵巻(hegassen emaki)・部分」(「早稲田大学図書館 」(Waseda University Library)蔵)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/chi04/chi04_01029/index.html
『内容等 Notes
29.6×1003.1cm(外寸29.6×1048.0cm)/伝覚猷画/相覧弘化3年写の写本/紙本彩色/虫損あり/巻子装』

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/11/blog-post_4.html

『放屁図』(葛飾北斎 画/1839年)の部分拡大像(「江戸ガイド」)
https://edo-g.com/blog/2019/03/hokusai.html/hokusai67_l
「2019年大型企画『新・北斎展』の見どころをまとめてみた 初公開作品も!」
https://edo-g.com/blog/2019/03/hokusai.html

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/11/blog-post_4.html

『開化放屁合戦絵巻』(河鍋暁斎画)(「江戸ガイド」)
https://edo-g.com/blog/2016/08/fart.html

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/11/blog-post_4.html

「濁点のついた火に男性が放屁しています。」「ひ」に濁点で「び」。屁は「へ」。ということで、答えは「へび」。(「江戸ガイド」)
https://edo-g.com/blog/2016/08/fart.html/2

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/11/blog-post_4.html

「あ」が「さ」っとした屁に鼻をつまんで「くさい」という男性。「あ」「さ」「くさ」。そうです。答えは「浅草」。(「江戸ガイド」)
https://edo-g.com/blog/2016/08/fart.html/2

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北斎の狂句(その七) [北斎の狂句]

その七 誰が嗅いで見て譬たか河童の屁

誰(だ)が嗅いで見て譬(たとえ)たか河童(かっぱ)の屁(へ) 卍 文政八(一八二五)(『柳多留八十五篇』)

●河童の屁=『河童の屁の語源には、「木っ端の火」が転訛したとする説と、河童が水中で屁をしても勢いがないことから、取るに足りないことの意味になったとする説がある。
木っ端の火は、取るに足らないことや、たわいもないことなど、河童の屁と同様の意味で使われており、その語源も定まっているため、「木っ端の火」の転化説が妥当である。
後者の説は、河童が水中で屁をしたことを想定し、その勢いがないことまで考え、取るに足りないことの意味に繋げている点で無理がある。また、簡単にやってのけるという意味には繋がらない。河童の屁を「屁の河童」と反転させる言い方は、江戸時代後期頃、言葉を反転させるのが流行したことによる。』(『語源由来辞典』)

https://gogen-yurai.jp/kappanohe/


 これが、「画狂老人・卍(北斎)」が描くと、次のとおりとなる。

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/11/blog-post_3.html

『北斎漫画』(第12編)より「釣の名人」(葛飾北斎 画)の拡大画像
https://edo-g.com/blog/2017/07/utagawa_hirokage.html/utagawa_hirokage8_l
『北斎漫画(第12編)』(「国立国会図書館デジタルコレクション」22/34)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851657
(右図)「釣りの名人」
(左図)「同 河童を釣るの法」

この図の、正解らしきものは、次のとおり。

https://youkaiwikizukan.hatenablog.com/entry/2013/05/27/151349

(右図)「釣りの名人」→ 「魚を狙ったら女の人が釣れました! やったね!」
(左図)「河童を釣るの法」→「河童は人間のマル秘臓器である『尻小玉』を好むというのに、この男ときたら尻を突出し『どうぞどうぞ』」な恰好である。」(この解よりも、「河童の好物の『※尻小玉』を餌に、尻を水面突き出して、河童を誘いだし、水面から出てきたら、左手に持っている網を引いて生け捕りする図」というのが、この図の正解に近いのかも知れない。)

『※尻小玉(尻子玉)』=尻子玉とは人間の肛門内にあると想像された架空の臓器で、河童は、抜いた尻子玉を食べたり、竜王に税金として納めたりするという。ラムネ瓶に栓をするビー玉のようなものともされ、尻子玉を抜かれた人は「ふぬけ」になると言われている。「河童が尻小玉を抜く」という伝承は、溺死者の肛門括約筋が弛緩した様子が、あたかも尻から何かを抜かれたように見えたことに由来するとの説もある。人間の肝が好物ともいうが、これも前述と同様に、溺死者の姿が、内臓を抜き去ったかのように見えたことに由来するといわれる。(「ウィキペディア」)

句意=「河童の屁」とか「屁の河童」とか、その「譬え」は、「誰が・何時・何処で、どのようにして、嗅いだものなのか」、そんな「譬え」を言いだした野郎に、この「卍」(まんじ)様の「屁」でも喰らわしてやるか! 」

●「河童にまつわる言葉(譬)」(「ウィキペディア」)

※河童の川流れ
得意分野であるにも関わらず失敗してしまうことを、水泳の得意な河童が川に溺れる様子に例えたもの。
※河童の木登り
苦手なこと、不得意なことをする例え。
※屁の河童
いつも水の中にいる河童の屁には勢いがないことから、「取るに足りないこと」を「河童の屁」と呼ぶようになり、後に語順が変わった。「木っ端の火」が語源という説もある。
※陸(おか)へ上がった河童
「河童は水中では能力を十分発揮できるが、陸に上がると力がなくなる」とされるところから、力のある者が環境が一変するとまったく無力になってしまうことのたとえ。
※カッパ巻き
河童がキュウリを好むことから巻き寿司のキュウリ巻きをカッパ巻きと呼ぶ。
※河童忌
小説家芥川龍之介の忌日7月24日。死の直前の代表作『河童』にちなむ。
※河童の妙薬
河童が製法を教えたと伝承されている由来を持つ民間薬・家伝薬のこと。
※ガタロ
上方落語の演目『代書』『商売根問』などに登場する商売。川底を網でさらって得た鉄くずや貴金属などを換金して稼ぎを得る自営業を指し、その川さらいの姿が河童を連想させる事から商売の隠語として河童の関西名「河太郎」(がたろ)が当てられた。水泳が得意な人や、頭頂の毛髪が少ない人など、河童を連想させる人物のあだ名として使われることもある。
※雨具の合羽(かっぱ)は、ポルトガル語の capa(カパ)に由来し河童とは無関係である。ただし河童を合羽と書くことはある。

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/11/blog-post_3.html

歌川国芳画、多嘉木虎之助。田村川で川虎(河童)を生け捕る図(「ウィキペディア」)

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/11/blog-post_3.html

河童に屁をくらわす。月岡芳年作(「大田記念美術館」蔵)
https://twitter.com/ukiyoeota/status/1239764752886202368

(参考)「葛飾北斎と河童の屁」(コラム)

https://washimo-web.jp/Report/Mag-Hokusai.htm

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/11/blog-post_3.html

渋温泉の北斎句碑の一つ
- 誰が嗅(かい)で見て譬(たとえ)たか河童の屁  北斎 -

『屁(へ)の河童』というたとえがあります。河童はいつも水の中にいるため、屁をしてもあまり勢いがないことから、『取るに足りないこと』を『河童の屁』にたとえるようになり、後に語順が現在のように入れ替わりました。
 
世界的に有名な江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎(かつしかほくさい、1760~1849年)は、例えば、借金するとき、借用書に自分が深々と頭を下げているイラストを描いて、北斎をもじって『ヘクサイ(屁臭い)』と署名するなど、天真爛漫で奇行に富み、清貧に生きた人でもありました。そして、知る人ぞ知る川柳の大家でもありました。
 
渋温泉そして地獄谷野猿公苑へ行くのに乗ったのが、長野電鉄の特急電車『スノーモンキー』でした。長野駅 ~ 湯田中の間、33.2kmを44分で走ります。長野電鉄では、電車が長野駅と湯田中駅に着くとき、『終点』ではなく『終着駅』とアナウンスし、思わずジーンと旅情を掻き立てられました。
 
また、スノーモンキーの車内では、『まもなく小布施(おぶせ)、栗と北斎の町・小布施に到着致します』などと、電車が駅の直前に近づくと、その駅周辺の名所や名物などを紹介しながらアナウンスします。
 
北斎が、晩年に長く逗留したのが長野県上高井郡の小布施でした。江戸で知り合った小布施の文人・高井鴻山(たかいこうざん)に招かれた北斎は84歳から88歳の4年間小布施に滞在し『怒涛図』などを描いています。
 
北斎は、小布施からそう遠くない渋温泉にも湯治に訪れたとされ、渋温泉には北斎の川柳を刻んだ 187本の御影石の句碑が建てられています。その一つに河童の屁の句があります。
 
   誰が嗅で見て譬たか河童の屁  北斎
 
河童の屁を誰が嗅(か)いでみて『取るに足りないこと』に譬(たと)えたのかというユーモアです。ほかの川柳もなかなか面白いです。
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北斎の狂句(その六) [北斎の狂句]

その六 屁でもない事雪隠で考へる

屁(へ)でもない事(こと)雪隠(せっちん)で考へる 万仁 文化八年(『柳多留』五四篇)

https://www.fleapedia.com/%E4%BA%94%E5%8D%81%E9%9F%B3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9/%E3%81%B8/%E5%B1%81%E3%81%A7%E3%82%82%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%AF-%E6%84%8F%E5%91%B3/

●屁(へ)でもない=屁でもないとは、あるものごとが、屁にも値しないほどとるに足らない、問題にならないという意味。与えられた仕事が容易であると感じられたとき、「こんな仕事、屁でもない」などと用い、自身の能力の高さを相対的に誇る言い方となる。しかし、確かに「屁でもな」ければ、まったく問題にならないことには違いないが、仮に「屁であ」ったとしてもたいした問題ではないので、さほど自分の実力をアピールする言葉にはならないと思う。
 「屁でもない」に似た言い方に「屁のカッパ」「朝飯前」などがある。「屁のカッパ」は「屁」で共通しているが、なんで「カッパ」なのかよくわからないのでいまはあまり用いられていない。「朝飯前」は「屁でもない」よりはややお上品であるが、いずれにしても、与えられた仕事やライバルを甘くみて、根拠のない自信をいだくこと自体があまりお上品な態度とはいえない。(「笑える 国語辞典」)

句意=雪隠に入ると、「ウーンウーン」と、「屁のカッパ」の「カッパの屁」は、「臭いのか? 臭くないのか?」などと、「屁でもない」ことを考えている。
 ロダンの「考える人」は、「ウンチする格好で、何かを考えているのではなく、何かを見詰めている」というのが、ロダンの、この作品の真相のようだと、画狂老人卍に非ず、「万仁」という狂句捻りが言っていた。

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/11/blog-post.html

「考える人」(「ウィキペディア)」
作者 オーギュスト・ロダン
製作年 1902
所蔵 ロダン美術館、パリ

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/11/blog-post.html

「杣人と雁(部分図)・北斎筆」(「信州小布施 北斎館」蔵)
紙本著色 一幅 印=よしの山 113.5×34.4㎝

(雪隠)=一茶「雪隠・二十三句」

http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi

主ありや野雪隠にも門の松  新年・人事・門松・八番日記・文政4
春の日や雪隠草履の新しき  春・時候・春の日・文化句帖・文化5
春風や大宮人の野雪隠   春・天文・春風・七番日記・文化11
山寺や雪隠も雉の啼所   春・動物・雉・文化句帖・文化5
かつしかや雪隠の中も春のてふ 春・動物・蝶・文化句帖・文化3
大御代や野梅のばくち野雪隠   春・植物・梅・七番日記・文化12
在郷や雪隠神も梅の花     春・植物・梅・八番日記・文政4
雪隠にさへ神ありてんめの花 春・植物・梅・文政句帖・文政5
雪隠の錠(じょう)も明く也梅の花 春・植物・梅・文政句帖・文政5
※梅さくや雪隠の外の刀持(かたなもち) 春・植物・梅・文政句帖・文政7
それそこは犬の雪隠ぞ山桜      春・植物・桜・八番日記・文政4
野雪隠のうしろをかこふ柳哉   春・植物・柳・八番日記・文政2
雪隠の歌も夏書(げがき)の一ツ哉  夏・人事・夏籠・文政句帖・文政5
塗盆(ぬりぼん)を蠅が雪隠にしたりけり 夏・動物・蠅・文政句帖・文政76
萩垣やかざり雪隠や初時雨      冬・天文・初時雨・七番日記・文化11
※はつ雪や雪隠の供の小でうちん   冬・天文・初雪・七番日記・文化8
はつ雪や雪隠のきはも角田川     冬・天文・初雪・七番日記・文化10
※はつ雪やどなたが這入る野雪隠   冬・天文・初雪・七番日記・文化11
一方は霜柱也野雪隠         冬・天文・霜柱・八番日記・文政3
雪隠と背合せや冬籠       冬・人事・冬籠り・文政句帖・文政5
雪隠とうしろ合(せ)や冬籠   冬・人事・冬籠り・文政句帖・文政5
雪隠も名所のうちぞ鳴千鳥   冬・動物・千鳥・七番日記・文化10
木母寺(もくぼじ)の雪隠からも千鳥哉 冬・動物・千鳥・七番日記・文化11

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/11/blog-post.html

「北斎漫画 十二編」(26/32)所収「屎(くそ)別所(?)」
http://kawasaki.iri-project.org/content/?doi=0447544/01800000H0

 この北斎の画は、裃を付けた立派な武士が、「雪隠」を借りて「用を足している」。お供の者は、外で、「クサイ クサイ」と「鼻ヲツマンデイル」。これぞ、「北斎漫画」という図柄である。左下端の文字は、「屎別所?」か「屎別恥?」か、「屎別所」として置きたい。
 この北斎の図には、一茶の、次の句などが的を射ている。

※梅さくや雪隠の外の刀持(かたなもち)
※はつ雪や雪隠の供の小でうちん(提灯)
※はつ雪やどなたが這入る野雪隠
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北斎の狂句(その五) [北斎の狂句]

その五 灰吹に烟りの残る暮の客

灰吹(ふき)に烟(けむ)りの残る暮(くれ)の客 卍 文政十年(一八二七)

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/10/blog-post_29.html


「灰吹から大蛇」(『北斎漫画 十二編』)
http://kawasaki.iri-project.org/content/?doi=0447544/01800000H0

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/10/blog-post_29.html

「灰吹から大蛇(部分拡大図)」(『北斎漫画 十二編』) (「川崎市市民ミュージアム図録『日本の漫画300年』」より)

●「灰吹き」=タバコ盆についている、タバコの吸い殻を吹き落とすための竹筒。吐月峰(とげっぽう)。(「デジタル大辞泉」)
※「吐月峰(とげっぽう)」=《静岡市西部の丸子町にある山の名。連歌師宗長が、ここの竹林の竹で灰吹きを作り、吐月峰と名づけたところから》タバコ盆に用いる竹製の灰吹き。
(「デジタル大辞泉」)
※雑俳・しげり柳(1848)「暁にはづむ鞠子の吐月峯」(「精選版 日本国語大辞典」)
※灰吹きから蛇(じゃ)が出る=意外な所から意外なものが出るたとえ。また、ちょっとしたことから途方もないことが生じるたとえ。(「デジタル大辞泉」)
※灰吹きと金持ちは溜まるほど汚い=灰吹きはタバコの吸いがらがたまるほどきたないように、金持ちも財産がふえればふえるほど金にきたなくなる。(「ことわざを知る辞典」)
※煙草盆(たばこぼん)= 喫煙用具を入れる器で、火入れ、刻み煙草入れ、灰吹き(吸殻入れ)が収められ、煙管(きせる)2本を吸口が右になるように置く。寄付(よりつき)や腰掛、薄茶(うすちゃ)席に用意され、客は煙草を吸うほどのくつろいだ気分を味わう(「日本大百科全書(ニッポニカ)『茶道/茶事用語』」)

句意=暮れの大晦日はなんやかんやと人の出入りが多い。煙草盆の吸い殻入れの「灰吹き」(竹筒)も、先客の煙草の吸殻の煙りが未だにくすぶっている。
これに蛇足を付け加えると、つい先だって、北信濃の俳諧寺一茶が亡くなった。中気を患い、無理がたったと、そんな話をして、先ほど川柳会の仲間が、中風気味の吾輩に「この薬を飲んで養生しろ」とのことだ。
 そうそう、この年の翌年のこと、長崎のオランダ商館の「シーボルト」さんらが、吾輩の作品や、国禁である日本地図などを国外に持ち出そうとしたとかの、奇妙奇天烈な「シーボルト」事件やらが勃発して、まさに、「灰吹きから蛇(じゃ)が出た」ような、不気味な年であったわい。

句意周辺=文政十年(一八二七)、画狂老人・卍、狂句人・卍は、四月二十九日、五月二十二日、六月五日開催の川柳の会(催主=風松、判者=柳亭種彦)に出席した。その川柳の会での一句である。この頃、中風を患うが、自家製の薬で回復したという。(『没後150年記念葛飾北斎―東西の架け橋(日本経済新聞社編)』所収「葛飾北斎年譜(未定稿)・菅原真弓編」)
 この年の十一月十九日、松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳諧師の小林一茶が没した(享年六十五)。 北斎は、宝暦十年(一七六〇)の生まれ、一茶は、宝暦十三年(一七六三)の生まれ、北斎が三歳年上であるが、ほぼ同世代の生まれである。
そして、北斎は、自ら、「葛飾の百姓(性)八右衛門」を号するほどに、「武蔵国葛飾(現・東京都墨田区の一角)の百姓出身、そして、一茶は、信州柏原の百姓の出で、後半生は、継母との遺産相続の農地の争いなど、帰郷して、一百姓である共に、俳諧師としての、二股人生を歩んだ。
一茶は、その六十五年の生涯において、「芭蕉の約千句、蕪村の約二千八百句に比して、一茶、約二万句」(『小林一茶―句による評伝(金子兜太 著)』)と、膨大な句を今に遺している。まさに、句狂(巨)人・俳諧寺一茶の名が相応しい。
一方、「北斎は、絵筆一筋の生活を四十歳から半世紀続けた北斎は、生涯でおよそ三万四千点という膨大な作品を残した。単純計算しても、一日約二点を五十年間描き続けたことになる」(『知られざる北斎(神山典士著)』)と、一茶以上の、「葛飾」の「春朗・宗理・北斎・戴斗・為一・卍・画狂老人・北斎辰政(ときまさ)・三浦屋八右衛門・百姓八右衛門」と変幻自在の、大画狂(巨)人なのである。
そして、一茶が亡くなった翌年の、「シーボルド事件」が勃発した、文政十一年(一八二八)に、画・俳二道を究めた、江戸琳派の創始者の「酒井抱一(姫路藩主・忠以の弟・忠因)」(屠牛・狗禅・鶯村・雨華庵・軽挙道人・庭柏子・溟々居・楓窓・白鳧・濤花、杜陵(綾)・尻焼猿人・屠龍)が没している(享年六十八)。
 まさに、この「北斎(宝暦十年生まれ)・抱一(宝暦十一年生まれ)・一茶(宝暦十三年生まれ)」(年齢順)は、江戸後期の最後を飾る、その大道芸を見せてくれる。

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/10/blog-post_29.html

葛飾北斎「北斎漫画」十編 香具師  すみだ北斎美術館蔵
https://intojapanwaraku.com/art/4057/

(煙草曲芸)=一茶「煙草・二十句」

http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi?group=hirarajp&dbi=20140103235455_20140104000746&s_entry=17340&se0=0&sf0=0&sk0=

今春が来たよふす也たばこ盆   新年 八番日記
かすむ程たばこ吹つゝ若菜つみ  新年  書簡
一引はたばこかすみやわかなつみ 新年  八番日記
二葉三葉たばこの上に若な哉 新年   文政句帖
二葉三葉たば粉の上の若な哉 新年   文政句帖
永き日やたばこ法度の小金原   春    文政句帖
酒法度たばこ法度や春の雨    春 七番日記
大寺のたばこ法度や春の雨 春 文政句帖
てうちんでたばこ吹也春の風 春 七番日記
春風に二番たばこのけぶり哉 春 七番日記
菜畠やたばこ吹く間の雪げ川 春 文政句帖
雛棚やたばこけぶりも一気色 春 七番日記
参詣のたばこにむせな雀の子 春 七番日記
鶯よたばこにむせな江戸の山 春 七番日記
鶯やたばこけぶりもかまはずに  春 七番日記
蝶(々)立とは吹かざりしたばこ 哉 春 文政句帖
さく花にけぶりの嗅いたばこ哉  春 七番日記
青くさきたばこ吹かける桜哉 春 花見の記
涼しさや土橋の上のたばこ盆 夏 八番日記
二番のむつくり見ゆるたばこ哉  秋   享和句帖
老らくもことしたばこのけぶり哉 秋   八番日記
赤くてもことしたばこのけぶり哉 秋   梅塵八番
けぶりともならでことしのたばこ哉 秋  八番日記
けぶりともならでことしのたばこ吹 秋  文政句帖

(鉤柿)=一茶「柿・二十句」

http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi?group=hirarajp&dbi=20140103235455_20140104000746&s_entry=17340&se0=0&sf0=0&sk0=

柿を見て柿を蒔けり人の親    秋 七番日記
胡麻柿や丸でかぢりし時も有   秋 七番日記
渋い柿灸をすへて流しけり    秋 七番日記
浅ましや熟柿をしやぶる体たらく 秋 七番日記
くやしくも熟柿仲間の坐につきぬ 秋 七番日記
御所柿の渋い顔せぬ罪深 秋 七番日記
渋柿をはむは鳥のまゝ子哉    秋 七番日記
高枝や渋柿一つなつかしき    秋 七番日記
生たりな柿のほぞ落する迄に   秋 七番日記
庵の柿なり年もつもおかしさよ  秋 七番日記
頬べたにあてなどするや赤い柿 秋 八番日記
頬べたにあてなどしたり赤い柿 秋 梅塵八番
甘いぞよ豆粒程も柿の役     秋 八番日記
甘いぞよ豆粒程でも柿の役 秋 梅塵八番
柿の木であえ(と)こたいる小僧哉 秋 八番日記
狙(さる)丸が薬礼ならん柿ふたつ 秋 八番日記
師の坊は山へ童子は柿の木へ    秋 八番日記
渋柿をこらへてくうや京の児    秋 八番日記
渋い柿こらへてくうや京の児    秋 梅塵八番
渋い所母が喰いけり山の柿     秋 八番日記

(無芸大食)=一茶「蕎麦・十句」

http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi

藪蕎麦のとくとく匂へかへる雁  春 文化句帖
蕎麦国のたんを切りつゝ月見哉  秋 おらが春
蕎麦の花たんを切つゝ月見哉    秋 発句鈔追加
更しなの蕎麦の主や小夜砧  秋 享和句帖
徳本の腹をこやせよ蕎麦(の)花  秋 七番日記
日の入のはやき辺りを蕎麦の花  秋 発句鈔追加
雪ちるや御駕へはこぶ二八蕎麦  冬 だん袋
初霜や蕎麦悔る人めづる人   冬 寛政句帖
芭蕉忌の客が振舞ふ夜蕎麦切  冬 発句鈔追加
草のとや先蕎麦切をねだる客   冬 梅塵八番

(曲喰)=一茶「団子・十五句」

http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi

春雨やあさぢが原の団子客   春 希杖本
草の葉や彼岸団子にむしらるゝ  春 文化句帖
草の家や丁どひがんの団子哉   春 文政句帖
寺町は犬も団子のひがん哉   春 文政句帖
胡左を吹口へ投込め土団子   春 浅黄空
黒土も団子になるぞ梅の花   春 七番日記
有様は我も花より団子哉   春 七番日記
正直はおれも花より団子哉   春 浅黄空
団子など商ひながら花見哉   春 八番日記
としまかりよれば花より団子哉 春 文政句帖
としよりの身には花より団子哉 春 書簡
看板の団子淋しき柳哉     春 享和句帖
十団子玉だれ近く見れけり    夏 いろは別雑録
土団子けふも木がらしこがらしぞ 冬 七番日記
霜がれ(や)胡粉の剥し土団子 冬 八番日記

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北斎の狂句(その四) [北斎の狂句]

その四 起きてみつ寝てみつ蚊帳をあしたうけ 

起きてみつ寝てみつ蚊帳(かや)をあしたうけ  万仁 文化五年(一八〇八)

●「起きてみつ/寝てみつ/蚊帳の/広さかな」の「本歌取り(本句取り・文句取り)」。
※本歌取り=歌学用語。典拠のしっかりした古歌 (本歌) の一部を取って新たな歌を詠み,本歌を連想させて歌にふくらみをもたせる技法。「苦しくも降りくる雨か三輪が崎佐野のわたりに家もあらなくに」 (『万葉集』) を本歌として「駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮」 (『新古今集』) が詠まれるなどがその例。『万葉集』『古今集』にもこれに類する方法は行われていたが,平安時代末期,藤原俊成の頃から意識的に行われた。藤原定家はその技法を規定し,(1) 本歌は三代集またはその時代のすぐれた歌人の歌に限る,(2) 本歌の2句と3~4字程度の長さを取るのがよい,(3) 取った句の位置は本歌と異なるのがよい,(4) 春の歌を取って恋の歌を詠むというように主題を変えるのがよいとした。時代が下がるにつれ,本歌の範囲は広がり,細かくその方法が論じられて,中世ではごく普通に用いられる技法だった。なお物語や漢詩文に典拠をもつ場合は「本説 (ほんぜつ) 」があるといい,漢詩文の場合は「本文 (ほんもん) 」があるともいう。和歌だけでなく,連歌でも行われた。(出典「ブリタニカ国際大百科事典」)

世に経(ふ)るは苦しきものを槇の屋にやすくも過ぐる初時雨かな 二条院讃岐「新古今」
世にふるもさらにしぐれの宿りかな 宗祇「新撰苑玖波集・巻二十」
世にふるもさらに宗祇のやどり哉  芭蕉「虚栗」     
初しぐれ猿も小蓑をほしげ也    芭蕉「猿蓑」
あれ聞けと時雨来る夜の鐘の聲   其角「猿蓑」

https://jhaiku.com/haikudaigaku/archives/1225

その中に唯の雲あり初時雨    加賀千代女
はつしぐれ何所やら竹の朝朗    同
はつ時雨見に出た我は残りけり   同
はつ時雨野にととのふたものは水  同
まだ鹿の迷ふ道なり初しぐれ    同
京へ出て目にたつ雲や初時雨    同
初しぐれ京にはぬれず瀬田の橋   同
初しぐれ水にしむほど降にけり   同
初しぐれ風もぬれずに通りけり   同
晴てから思ひ付けりはつしぐれ   同
草は寝て根にかへりけり初しぐれ  同
眺めやる山まで白しはつ時雨    同
田はもとの地に落付や初時雨    同
日の脚に追はるる雲や初時雨    同
柳には雫みじかしはつ時雨     同
露はまた露とこたえて初しぐれ   同

●「あしたうけ」=「明日(あした)受け(質受け(する)=質受けとは、元金と質料を支払って、質屋に預けている品物(質草)を受け戻す事。
※「抜け」=「抜け風」=「抜け句」=「ヌケ」=「俳諧で、主題を句の表面にあらわさないで、なぞめいた余意によってそれと暗示させる手法。談林俳諧で流行したもの。たとえば『鹿を追ふ猟師か今朝の八重霞〈舟中〉』では『鹿を追ふ猟師山を見ず』」の諺から「山を見ず」という詞が「ぬけ」になっている。ぬけがら。」(出典精選版 日本国語大辞典))=「あした(あした)『質(「ヌケ」)=省略されている』うけ(受け)」=「明日質受けする」の意。

句意=「起きてみつ/寝てみつ/蚊帳の/広さかな」、この句は加賀の千代女の作とか、江戸吉原の名妓・浮橋の句ともされているが、もうどうにも、質入れしてしまった『蚊帳』がないと『ダメ・ダメ』と、「ネテもサメても」頭から去らずに、「明日、必ず、質受けする」と、ここで一句、「卍」にあらず「万仁」の名をもって、認めた。」

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/10/blog-post_27.html

北斎筆「夕顔棚納涼」(「信州小布施 北斎館蔵」)
紙本著色一幅 八十四老卍筆 印=葛し可 101.2×28.8㎝ (『北斎館肉筆大図鑑』)

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/10/blog-post_27.html

北斎筆「夕顔棚納涼」(部分拡大図)(「信州小布施 北斎館蔵」)
https://hokusai-kan.com/news/1191/

 『北斎館肉筆大図鑑(p66)』によると、この「団扇には菊(除虫菊)が描かれ、蚊よけを意味する」とか。そして、これは、「夕顔のさける軒端の下涼み男はててれ女はふたの物」の歌や、村田了阿の「楽しみは夕顔棚の下涼み男はててら(褌、襦袢)女はふたの(腰巻)して」とを踏まえているという。
 さらに、ここに描かれている男女(夫婦?)は、二人とも煙管(キセル)を加えている。

https://www.tabashio.jp/collection/tobacco/t14/index.html

『 たばこは、江戸文化にとけ込み、欠かせない風俗のひとつとなりました。特に庶民にとっては数少ない身近な楽しみであり、生活のなかのいこいとして疲れをいやすものでした。また、会話しながらの一服は、雰囲気をなごやかなものにし、来客にはもてなしのひとつとなるなど、社交の場でも活躍したのです。いつでも喫煙できるように行楽や旅にも携えられました。きせるやたばこ入れの喫煙具にも、庶民の「粋」の精神が発揮され、人よりも凝ったものや、良いものを持つことが自慢されていました。』

 ここで、北斎(万仁)の「起きてみつ寝てみつ蚊帳(かや)をあしたうけ」の句が、加賀・千代女(江戸吉原の名妓・浮橋とも)の「本歌取り(本句取り)」の句とするならば、この北斎(八十四老卍筆)の「夕顔棚納涼」は、次の、狩野探幽の弟子・久隅守景の「夕顔棚納涼図屏風』の、その「本絵取り」ということになろう。 

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/10/blog-post_27.html

「夕顔棚納涼図屏風』 作者:久隅守景 17世紀末作 二曲一隻 紙本淡彩 
150.5cm×167.5cm  収蔵場所 東京国立博物館(東京都・上野)
http://artmatome.com/%E3%80%8E%E5%A4%95%E9%A1%94%E6%A3%9A%E7%B4%8D%E6%B6%BC%E5%9B%B3%E5%B1%8F%E9%A2%A8%E3%80%8F%E3%80%80%E4%B9%85%E9%9A%85%E5%AE%88%E6%99%AF/
『夕顔棚の下で農民一家が夕涼みをしている場面。題材は木下長潚子(1569~1649)の和歌「夕顔のさける軒はの下すずみ、おとこはててれめはふたの物」であると言われている。男はててれめ(襦袢)姿で、女はふたの物(腰巻)である。この穏やかな農民の表情に共感を覚える人々が多かったと思われる。』

(参考)「蚊帳」「蚊遣火」「若煙草」周辺

「蚊帳(かや)」=三夏
近江蚊帳汗やさざ波夜の床   芭蕉「六百番発句集」
ひとり居や蚊帳を着て寝る捨心 来山「童子教」
釣りそめて蚊帳面白き月夜かな 言水「前後園」
仰いてながむる蚊帳の一人かな 太祗「太祗句集」
蚊帳の内朧月夜の内待哉     蕪村「遺稿」

「蚊遣火(かやりび )」= 三夏
蚊遣火の煙の中になく子かな    蝶夢「草根発句集」
あはれとより外には見えぬ蚊遣かな 嵐雪「其袋」
旅寝して香わろき草の蚊遣かな   去来「続虚栗」
燃え立つて貌はづかしき蚊やりかな 蕪村「連句会草稿」
もゆるときぱつと涼しき蚊遣かな  麦水「葛箒」

「若煙草(わかたばこ)」= 三秋
たばこ干す山田の畔の夕日かな   其角「五元集」
若たばこ軒むつまじき美濃近江   蕪村「夜半叟句集」
たばこ干す寺の座敷に旅寝かな   几董「晋明集二稿」
わかたばこ丹波の鮎の片荷かな   維駒「五車反古」

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/10/blog-post_27.html

『春宵一服煙草二抄』(山東京山伝編)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2539856

https://sites.google.com/site/komonzyokai2/%E6%98%A5%E5%AE%B5%E4%B8%80%E6%9C%8D%E7%85%99%E8%8D%89%E4%BA%8C%E6%8A%84

くゆらする
 野べのきせるも
    桜ばり
 よしの烟草に
  立つしら雲
      山東京山
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