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広重の世界(一) [広重]

(その一)広重のスケッチ集(波濤図)

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Album: Miscellaneous Sketches → 波濤図
Type Album          → 画譜(スケッチ集)
Maker(s) Artist: Utagawa Hiroshige 歌川広重 (1797-1858)
Historical period(s) Edo period, Mid-eighteenth century
School Ukiyo-e School
Medium Ink and color on paper → 紙本着色
Dimension(s) H x W x D (overall, album closed): 27.8 x 16.8 x 3.8 cm (10 15/16 x 6 5/8 x 1 1/2 in)

(メモ)

歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)は、江戸時代の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった[1]。かつては安藤広重(あんどう ひろしげ)とも呼ばれたが、安藤は本姓、広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない[2]。ゴッホやモネなどの画家に影響を与え、世界的に著名な画家である。
広重は、江戸の八代洲河岸(やよすがし)定火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として誕生。源右衛門は元々田中家の人間で、安藤家の養子に入って妻を迎えた。長女と次女、さらに長男広重、広重の下に三女がいた。広重は幼名を徳太郎、のち重右衛門、鉄蔵また徳兵衛とも称した。文化6年(1809年)2月、母を亡くし同月父が隠居し、数え13歳で広重が火消同心職を継ぐ。同年12月に父も死去。
幼い頃からの絵心が勝り、文化8年(1811年)15歳の頃、初代歌川豊国の門に入ろうとした。しかし、門生満員でことわられ、歌川豊広(1774年-1829年)に入門。翌年(1812年)に師と自分から一文字ずつとって歌川広重の名を与えられ、文政元年(1818年)に一遊斎の号を使用してデビュー。
文政4年(1821年)に、同じ火消同心の岡部弥左衛門の娘と結婚した。 文政6年(1823年)には、養祖父(安藤家)方の嫡子仲次郎に家督を譲り、自身は鉄蔵と改名しその後見となったが、まだ仲次郎が8歳だったので引き続き火消同心職の代番を勤めた。
始めは役者絵から出発し、やがて美人画に手をそめたが、文政11年(1828年)師の豊廣没後は風景画を主に制作した。天保元年(1830年)一遊斎から一幽斎廣重と改め、花鳥図を描くようになる。
天保3年 (1832年)、仲次郎が17歳で元服したので正式に同心職を譲り、絵師に専心することとなった。一立齋(いちりゅうさい)と号を改めた。また立斎とも号した。入門から20年、師は豊廣だけであったが、この頃大岡雲峰に就いて南画を修めている[3]。
この年、公用で東海道を上り、絵を描いたとされるが、現在では疑問視されている。翌年から「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声は決定的なものとなった。以降、種々の「東海道」シリーズを発表したが、各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けており、ともに秀作をみた。また、短冊版の花鳥画においてもすぐれた作品を出し続け、そのほか歴史画・張交絵・戯画・玩具絵や春画、晩年には美人画3枚続も手掛けている。さらに、肉筆画・摺物・団扇絵・双六・絵封筒ほか絵本・合巻や狂歌本などの挿絵も残している。そうした諸々も合わせると総数で2万点にも及ぶと言われている。
安政5年没。享年62。死因はコレラだったと伝えられる。墓所は足立区伊興町の東岳寺。法名は顕功院徳翁立斎居士。友人歌川豊国(三代目)の筆になる「死絵」(=追悼ポートレートのようなもの。本項の画像参照)に辞世の歌が遺る。
東路へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん

https://ja.wikipedia.org/wiki/歌川広重

タグ:広重

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