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後鳥羽院撰「時代不同歌合」その三 [時代不同歌合]

その三 中納言家持と藤原清輔(再撰本=中納言国信)

家持と国信.jpg

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he04/he04_01584/he04_01584_p0005.jpg

藤原清輔.jpg

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he04/he04_01584/he04_01584_p0012.jpg

七番
   左                中納言家持
まきもくのひばらもいまだくもらぬに小松が原にあは雪ぞふる(新古今春上)
   右                藤原清輔
たつた姫かざしのたまのををよわみ乱れにけりとみゆる白露(千載秋上)
(注:再撰本では家持と国信が合わされている。「かすがののしたもえわたる草の上につれなくみゆる春の淡雪(新古今春上)=国信」)

八番
   左
かみなびの三室の山のくずかづら裏ふきかへす秋は来にけり(新古今秋上)
   右
今よりは更け行くまでに月はみじそのこととなく涙おちけり(千載雑上)
(注:再撰本では家持と国信が合わされている。「なにごとを待つとはなしにあけくれて今年もけふに成りにけるかな(金葉冬)=国信」)

九番
   左
かささぎのわたせる橋におく霜の白きをみれば夜ぞ更けにける(新古今冬)*
   右
冬がれの森のくちばの霜の上におちたる月の影のさやけさ(新古今冬)
(注:再撰本では家持と国信が合わされている。「山ぢにてそほちにけりな白露のあかつきおきの木々の雫に(新古今旅)=国信」)

(参考)

http://www.emuseum.jp/detail/100258

家持と国信二.jpg

重要文化財 1帖 紙本墨画 28.3×49.6 鎌倉時代・14世紀 東京国立博物館 A-19

(周辺メモ)

http://dep.chs.nihon-u.ac.jp/japanese_lang/pdf_gobun/158/158_02_oobushi.pdf

『時代不同歌合』の番いの研究 ――初撰本と再撰本について――(大伏春美)

2 初撰本と再撰本の番いの変更について  

本作品は藤原公任の『三十六人撰』の形式を踏襲するから、 樋口氏の指摘のように、ひとり三首ずつの秀歌をみることと、 歌合の番いとして対者との組み合わせをみることの二つの楽しみ方がある。 さて、初撰本と再撰本では、寺島氏の指摘のように四組の番いの変更が見られる。即ち

初撰本 家持――清輔、篁――国信、業平――西行、 伊勢――良経
再撰本 家持――国信、篁――西行、業平――良経、 伊勢――清輔

である。左の歌人はそのままで、右の歌人は清輔が後ろにまわってずれている。以下で具体的にみてゆくことにするが、そ の前にこの作品の番いの傾向を知るために、わかりやすい例を取り上げたい。

(初撰本=「家持と清輔」と再撰本=「家持と国信)

初撰本の家持・清輔の番いは、『万葉集』をまとめた家持に対し、六条藤家の歌学者清輔であり、私撰集の続詞花集』他 を撰びまた歌学書を多くまとめた実力者であるから、和歌に造詣の深い二人を並べ、適切な組み合わせと思われる。 一方、再撰本の家持・国信の番いの歌を見ると、それぞれの 歌もうまく対応しており、良い組み合わせと考えられる。また 国信は実力や業績は清輔に劣るにしても、堀河歌壇で活躍した 人物であり、『堀河百首』への関与や詠出、自家の歌合の主催 なども見られる。
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後鳥羽院撰「時代不同歌合」その二 [時代不同歌合]

その二 山辺赤人と法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠道)

山部赤人・藤原忠道.jpg

「時代不同歌合絵巻 : 模本. 1-4 / 後鳥羽院 撰」早稲田大学図書館蔵
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he04/he04_01584/he04_01584_p0004.jpg

四番
   左               山辺赤人
あすからは若なつまんとしめし野に昨日もけふも雪は降りつつ(新古今春上)
   右       法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠道)
漣やくにつみかみのうらさびて古き宮こに月ひとりすむ(千載雑上)

五番
   左
ももしきの大宮人はいとまあれや桜かざしてけふも暮しつ(新古今春下)
   右
おもひかねそなたの空を詠むればただ山のはにかかる白雲(詞花雑下)

六番
   左
和歌の浦に汐みちくればかたをなみ芦べをさしてたづ鳴き渡る(続古今雑上)
   右
わたの原こぎ出でてみれば久方の雲ゐにまがふ興津白波(詞花雑下)

(参考)

http://www.emuseum.jp/detail/100258

赤人・忠道二.jpg

重要文化財 1帖 紙本墨画 28.3×49.6 鎌倉時代・14世紀 東京国立博物館 A-19

(周辺メモ)

http://dep.chs.nihon-u.ac.jp/japanese_lang/pdf_gobun/158/158_02_oobushi.pdf

『時代不同歌合』の番いの研究 ――初撰本と再撰本について――(大伏春美)

1 諸本について
本作品は左右の五十人の歌人の各三首を歌合形式にしている が、百五十番に記すものと、一人三首ずつにまとめて五十番に 記すものがある。五十番の時は三首まとめての和歌の享受がされやすいと思う。また歌仙絵がある時も五十番の作品が多い。 諸本研究は樋口氏著書が詳しい。氏は諸本を六種類に分ける が、A本は孤立しており、B本がC・D・E本と展開してゆく として分類する。伝本について、樋口氏の分類を記し主な伝本 と活字本を記すと

初撰本は A本   穂久邇文庫蔵伝飛鳥井雅康筆本  日本歌学大系 甲本
    B本   群書類従巻二一五所収本  など
     C本   宮内庁書陵部蔵501・608本など 『王朝秀歌選』所収
    D本   愛知教育大学蔵本  C本と赤染衛門の歌一首の違い
再撰本は E本   宮内庁書陵部蔵501・556本など多数 F本とは後鳥羽院歌二首の違いと、西行歌の順 序の違いあり
F本    宮内庁書陵部蔵501・609本 新編国歌大観所収本

次に樋口氏・田槇氏の未紹介の本を記す。ともに早稲田大学 中央図書館蔵である三本で、再撰本である
〇『時代不同歌合』 ヘ4・1584 一巻 一軸 彩色画あり 江戸期の模本 本文は樋口氏著書分類のE本(東京国立博物館蔵 勝川雅信写本)に近似  一番に三首ずつ記す五十番本  早稲田大学図書館の検索システムWINEに画像情報あり
〇(外題なし) イ4・3164・84 一巻 一軸 明暦二年(一六五六)写 五十番本
絵なし 下巻のみ 蝉丸から宮内卿まで(二十五番から五十番まで)E本
〇『時代不同歌合』 四巻四軸 チ4・6345・1〜4 文政三年(一八二〇)古致写  
彩色画あり 五十番本 一巻は 人麿から良暹まで(一番から十七番まで)、二巻は貫之から秀 能まで(十八番から三十三番まで)、三巻は絵を部分的に模写 したもの、四巻は順から宮内卿まで(三十四番から五十番まで) を記す。四巻の内題に遠藤伴介とあり。WINEに画像情報あり F本


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後鳥羽院撰「時代不同歌合」その一 [時代不同歌合]

その一  柿本人麿と大納言経信

人麿と経信.jpg

「時代不同歌合絵巻 : 模本. 1-4 / 後鳥羽院 撰」早稲田大学図書館蔵
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he04/he04_01584/he04_01584_p0003.jpg

一番
   左                柿本人麿
たつた河紅葉ばながるかみなびのみむろの山に時雨ふるらし(拾遺冬)
   右                大納言経信
夕さればかどたのいなばおとづれてあしのまろやに秋風ぞ吹く(金葉秋)

二番
   左
足引の山鳥のをのしだりをのながながし夜をひとりかもねん(拾遺恋三)
   右
秋のよは衣さむしろかさねても月の光りにしくものぞなき(新古今秋下)
【君が世はつきじとぞおもふかみかぜやみもすそ川のすまむかぎりは(後拾遺賀)】

三番
   左
乙女子がそでふる山のみづがきの久しき世より思ひそめてき(拾遺恋四)
   右
おきつかぜ吹きにけらしな住吉の松のしづえをあらふ白浪(後拾遺雑四)

(参考)

http://www.emuseum.jp/detail/100258

人麿と経信二.jpg

重要文化財 1帖 紙本墨画 28.3×49.6 鎌倉時代・14世紀 東京国立博物館 A-19

左に古今集、後撰和歌集、拾遺和歌集の歌人を、右に後拾遺和歌集、金葉集、詞花集、千載和歌集、新古今和歌集の歌人を配したもので、後鳥羽上皇(1180~1239)が各時代の歌人をとり合わせて歌合を創ったものである。ほんらい150番の歌からなる上下2巻のものであるが、この東京国立博物館本はその上巻、75番からなる。もともと巻子であったものを現在は切り離して画帖形式となっている。
 絵は色彩を用いない白描で、面相部が比較的細緻な筆で、体はおおらかな筆線で描かれている。原本は後鳥羽上皇の周辺で、藤原信実に代表される絵師による似絵の手法で作られたものであろうことが、ここからも想像される。時代不同歌合は他にも伝存するが、本作品は鎌倉時代にさかのぼる、しかも上巻を完存する唯一の遺品であり重要である。

(周辺メモ)

『御影御日記』の建武三年(一三三六)十ニ月二十五日に、「時代不同御絵、先皇殊被執思食之条、定被知食置歟、且御影堂御本尊、若不慮事令出来給者、以此御影可奉尊崇之由、慥承勅定二条局西御方所奉持也」とある。この「西御方」は慈光寺本『承久記』、また、『平戸記』にもその名があり、「時代不同歌合絵巻」は、後鳥羽院の在世中に制作されたものと考えて良い。『続史愚抄』によると、「光明天皇の命により、先皇の光厳院の、のちに南朝の大臣となった冷泉大納言公泰から光厳院にもたらされた。」(『日本歴史叢書 肖像画 (宮崎新一著)』の要約)


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「百人一首」の周辺(その三) [百人一首]

その三 七夕の六歌仙(葛飾北斎筆)

六歌仙北斎・.jpg

七夕の六歌仙(葛飾北斎筆)
https://collections.mfa.org/objects/216480

(周辺メモ)

後列右から、小野小町 (おののこまち・生没年不明・歌番号9)→僧正遍昭 (そうじょうへんじょう・816-890年・歌番号12)→大伴黒主 (おおとものくろぬし・生没年不明)

前列右から、在原業平 (ありひらのなりひら・825-880年・歌番号17)→文屋康秀 (ぶんやのやすひで・生没年不明・歌番号22)→喜撰法師 (きせんほうし・生没年不明・歌番号8)

8 わが庵は都のたつみしかぞすむ 世をうぢ山と人はいふなり 喜撰法師
9 花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに  小野小町
12 天つ風雲の通ひ路吹き閉ぢよ をとめの姿しばしとどめむ     僧正遍照
17 ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは   在原業平朝臣
22 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ    文屋康秀

(大伴黒主)

https://www.rakuten.ne.jp/gold/ogurasansou/karuta/210.html

六歌仙のうちひとりだけ百人一首に選ばれなかった大友(大伴とも)黒主(おおとものくろぬし)という人物。
平安時代の歌人だったことはわかっていますが、大友皇子(おおとものみこ)の末裔という説があるいっぽうで大友村主(すぐり)黒主という役人と同一人物だろうともいわれ、
いまだにその正体は突き止められていません。
村主は大陸からの渡来人を管轄する者に与えられた姓(かばね)です。大友氏は近江国の滋賀郡大友郷に本拠地を置く氏族だったとか。
『古今和歌集』を見ると、その長(おさ)らしき黒主が、醍醐(だいご)天皇に近江の風俗歌(ふぞくうた=民謡)を献上しています。平安時代の貴族は諸国に民謡を提出させ、宮廷などで遊宴歌謡として愛唱していました。
あふみのや鏡の山をたてたれば かねてぞ見ゆる君が千歳は(古今和歌集 神遊 大伴くろぬし)
近江の鏡山には鏡が立ててありますからあらかじめ見えるのです あなたの千年の長寿が神前で歌い踊る神遊びの歌に分類されており、醍醐天皇の大嘗会(だいじょうえ)のために献上されています。大嘗会(大嘗祭とも)は天皇が即位後初めて行う新嘗祭(にいなめさい)のことです。
ところが『続後拾遺和歌集』に大伴黒主の名で載る歌は伊勢の風俗歌と詞書にあり、醍醐天皇の祖父、光孝天皇(十五)の大嘗会に献上されています。近江でなく伊勢の歌だというのが不思議です。
伊勢の海のなぎさを清みすむ鶴の 千とせの声を君にきかせむ(続後拾遺和歌集 賀 大伴黒主)
伊勢の海の渚は清らかなので鶴が通ってきています。その千歳の声(=長寿を祈る声)をあなたにお聞かせいたしましょう。どちらの歌も内容は長寿を祈る賀歌(がのうた)です。
こういうめでたい歌詞の民謡が各地にあったのでしょう。

風俗歌ではない、通常の歌も伝わっています。唐崎(からさき=琵琶湖西岸の地名)の浜である貴人が禊(みそぎ)をしていました。黒主はその貴人の案内や警固をしていたようなのですが、みるという名前の侍女に一目惚れしてしまいました。冗談を言ったりして戯れているうちに禊が終わり、貴人の一行は帰っていくことに。名残を惜しんだ黒主はみるに歌を贈りました。
なにせむにへたのみるめを思ひけむ 沖つ玉藻をかづく身にして(後撰和歌集 雑 くろぬし)
何のために渚の海松布(みるめ)に恋したのだろう。(わたしは)沖の藻を潜って採るような身分なのに、「へた」は「端」で波打ち際のこと。「海松布(みるめ)」は海藻の名前で、
「見る」と女性の名の「みる」に掛けています。この歌の黒主は近江の黒主にまちがいなさそうです。
研究者でも確信がもてないというのが実情のようですが、平安時代中期には黒主は近江に実在した人物と信じられていました。鎌倉時代の鴨長明は「志賀の郡(しがのこおり)」に黒主の明神が祀られており、昔の黒主が神になったものだと記しています。(無名抄)
これは大津市にある黒主神社のこと。伝説的歌人を祀ったものでは、ほかに蝉丸神社や猿丸神社もあります。実在が不確かな人物でも時を経れば神になり得るので、黒主もその例のひとつなのでしょう。

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「百人一首」の周辺(その二) [百人一首]

その二 六歌仙(喜多川歌麿筆)

歌麿・六歌仙.jpg

喜多川歌麿筆「六歌仙」
http://lcweb2.loc.gov/service/pnp/jpd/02100/02188v.jpg

(周辺メモ)

右から「時計回り」順に、僧正遍昭 (そうじょうへんじょう・816-890年・歌番号12→大伴黒主 (おおとものくろぬし・生没年不明)→文屋康秀 (ぶんやのやすひで・生没年不明・歌番号22)→)喜撰法師 (きせんほうし・生没年不明・歌番号8)→在原業平 (ありひらのなりひら・825-880年・歌番号17)→小野小町 (おののこまち・生没年不明・歌番号9)

康秀と小町.jpg

喜多川歌麿筆「六歌仙」(康秀と小町)
https://ukiyo-e.org/image/japancoll/p9000-utamaro-two-poets-3541

遍照と小町.jpg

喜多川歌麿筆「六歌仙」(遍昭と小町)
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/45009

https://musbic.net/2018-05-17/7004

岩の上に 旅寝をすれば いと寒し 苔の衣を 我に貸さなん(小野小町)
世をそむく 苔の衣は たゞ一重 貸さねば疎し いざ二人寝ん(僧正遍昭)

高貴なお生まれにも拘らず、若くして出家なさったイケメン僧正遍昭(へんじょう)と、謎の美女・小野小町。平安時代のビッグカップル、噂のお二人の真相はどうだったのでしょう?
お二人の関係を知る手がかりが『大和物語』にありました!
『大和物語』に登場する僧正遍昭と小野小町の物語は、『後撰和歌集』に残されている、お二人の問答歌がベースになっています。遂行されずに終わった「百夜通い」から数年、僧正遍昭が出家した後のお話です。


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「百人一首」の周辺(その一) [百人一首]

その一 六歌仙(土佐光起)

光起・六歌仙.jpg

土佐光起筆「六歌仙」 江戸時代・17世紀 絹本着色 100.3×49.6 1幅 東京国立博物館蔵 文化遺産オンライン

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/257215

六歌仙

https://hyakunin.stardust31.com/rokukasen.html

「六歌仙(ろっかせん)」とは、古今和歌集の仮名序において紀貫之が挙げた六人の歌人のことで、そこには「近き世にその名聞こえたる人」として紹介されています。
 その六歌仙とは

僧正遍昭 (そうじょうへんじょう・816-890年・歌番号12)
在原業平 (ありひらのなりひら・825-880年・歌番号17)
文屋康秀 (ぶんやのやすひで・生没年不明・歌番号22)
喜撰法師 (きせんほうし・生没年不明・歌番号8)
小野小町 (おののこまち・生没年不明・歌番号9)
大伴黒主 (おおとものくろぬし・生没年不明)
( *歌番号は百人一首の歌番号です)

の六人ですが、紀貫之自身はこの六人を「六歌仙」とは呼んでいません。
 「歌仙」とは、もともと仮名序で柿本人麻呂と山部赤人の二人に限って使われていて、「六歌仙」という名称は後世になってからの名称です。
 紀貫之はこれら六人の歌人を選んだ理由として、身分の高い公卿を除いて、当時においてすでに歌人として名が知られている人たちを選んだとしています。
 ですから、六歌仙の中には女性や僧侶も含まれていますが、歌人としても様々で、各人の歌風に共通性などがある訳でもありません。
 また、身分の高い人たちを対象にしなかったことについては、「官位高き人をば、容易きようなれば入れず」として、敢えて評価をしなかったようです。
 ところで、六歌仙についての仮名序における紀貫之の評価は、決して芳しいものでないのですが、これは柿本人麻呂と山部赤人の歌仙を念頭に置いたもので、この二人には遠く及ばないとしているようです。
 しかし、これら六歌仙以外の人たちの評価は更に厳しく、「歌とのみ思ひて、その様知らぬなるべし」として、全く取り上げようともしていないので、逆説的な言い方ですが、六歌仙について評価をしていると言えます。
 参考に、下に「古今和歌集・仮名序」において六歌仙について書かれている部分を紹介しておきますが、いずれにしても、これら六歌仙と呼ばれる人たちの和歌は素晴らしく、百人一首などによっても、身近に親しまれているのではないでしょうか。

「古今和歌集・仮名序」
ここに、古のことをも、歌の心をも知れる人、僅かにひとりふたり也き。然あれど、これかれ、得たる所、得ぬ所、互いになんある。
彼の御時よりこの方、年は百年あまり、世は十継になんなりにける。古の事をも歌をも、知れる人よむ人、多からず。今この事を言うに、官位高き人をば、容易きようなれば入れず。

その他に、近き世にその名聞こえたる人は、すなわち、僧正遍照は、歌のさまは得たれども、誠すくなし。例えば、絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。

在原業平は、その心余りて言葉足らず。萎める花の、色無くて臭い残れるがごとし。

文屋康秀は、言葉は巧みにて、そのさま身におわず。言わば、商人のよき衣きたらんがごとし。

宇治山の僧喜撰は、言葉かすかにして、初め終りたしかならず。言わば、秋の月を見るに、暁の雲にあえるがごとし。

小野小町は、古の衣通姫の流なり。哀れなるようにて、強からず。言わば、良き女の悩める所あるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。

大伴黒主は、そのさまいやし。言わば、薪負える山人の、花のかげに休めるがごとし。

この他の人々、その名聞こゆる、野辺に生うる葛の、這ひ広ごり、林に繁き木の葉の如くに多かれど、歌とのみ思ひて、その様知らぬなるべし。
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