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「百人一首」の周辺(その三) [百人一首]

その三 七夕の六歌仙(葛飾北斎筆)

六歌仙北斎・.jpg

七夕の六歌仙(葛飾北斎筆)
https://collections.mfa.org/objects/216480

(周辺メモ)

後列右から、小野小町 (おののこまち・生没年不明・歌番号9)→僧正遍昭 (そうじょうへんじょう・816-890年・歌番号12)→大伴黒主 (おおとものくろぬし・生没年不明)

前列右から、在原業平 (ありひらのなりひら・825-880年・歌番号17)→文屋康秀 (ぶんやのやすひで・生没年不明・歌番号22)→喜撰法師 (きせんほうし・生没年不明・歌番号8)

8 わが庵は都のたつみしかぞすむ 世をうぢ山と人はいふなり 喜撰法師
9 花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに  小野小町
12 天つ風雲の通ひ路吹き閉ぢよ をとめの姿しばしとどめむ     僧正遍照
17 ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは   在原業平朝臣
22 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ    文屋康秀

(大伴黒主)

https://www.rakuten.ne.jp/gold/ogurasansou/karuta/210.html

六歌仙のうちひとりだけ百人一首に選ばれなかった大友(大伴とも)黒主(おおとものくろぬし)という人物。
平安時代の歌人だったことはわかっていますが、大友皇子(おおとものみこ)の末裔という説があるいっぽうで大友村主(すぐり)黒主という役人と同一人物だろうともいわれ、
いまだにその正体は突き止められていません。
村主は大陸からの渡来人を管轄する者に与えられた姓(かばね)です。大友氏は近江国の滋賀郡大友郷に本拠地を置く氏族だったとか。
『古今和歌集』を見ると、その長(おさ)らしき黒主が、醍醐(だいご)天皇に近江の風俗歌(ふぞくうた=民謡)を献上しています。平安時代の貴族は諸国に民謡を提出させ、宮廷などで遊宴歌謡として愛唱していました。
あふみのや鏡の山をたてたれば かねてぞ見ゆる君が千歳は(古今和歌集 神遊 大伴くろぬし)
近江の鏡山には鏡が立ててありますからあらかじめ見えるのです あなたの千年の長寿が神前で歌い踊る神遊びの歌に分類されており、醍醐天皇の大嘗会(だいじょうえ)のために献上されています。大嘗会(大嘗祭とも)は天皇が即位後初めて行う新嘗祭(にいなめさい)のことです。
ところが『続後拾遺和歌集』に大伴黒主の名で載る歌は伊勢の風俗歌と詞書にあり、醍醐天皇の祖父、光孝天皇(十五)の大嘗会に献上されています。近江でなく伊勢の歌だというのが不思議です。
伊勢の海のなぎさを清みすむ鶴の 千とせの声を君にきかせむ(続後拾遺和歌集 賀 大伴黒主)
伊勢の海の渚は清らかなので鶴が通ってきています。その千歳の声(=長寿を祈る声)をあなたにお聞かせいたしましょう。どちらの歌も内容は長寿を祈る賀歌(がのうた)です。
こういうめでたい歌詞の民謡が各地にあったのでしょう。

風俗歌ではない、通常の歌も伝わっています。唐崎(からさき=琵琶湖西岸の地名)の浜である貴人が禊(みそぎ)をしていました。黒主はその貴人の案内や警固をしていたようなのですが、みるという名前の侍女に一目惚れしてしまいました。冗談を言ったりして戯れているうちに禊が終わり、貴人の一行は帰っていくことに。名残を惜しんだ黒主はみるに歌を贈りました。
なにせむにへたのみるめを思ひけむ 沖つ玉藻をかづく身にして(後撰和歌集 雑 くろぬし)
何のために渚の海松布(みるめ)に恋したのだろう。(わたしは)沖の藻を潜って採るような身分なのに、「へた」は「端」で波打ち際のこと。「海松布(みるめ)」は海藻の名前で、
「見る」と女性の名の「みる」に掛けています。この歌の黒主は近江の黒主にまちがいなさそうです。
研究者でも確信がもてないというのが実情のようですが、平安時代中期には黒主は近江に実在した人物と信じられていました。鎌倉時代の鴨長明は「志賀の郡(しがのこおり)」に黒主の明神が祀られており、昔の黒主が神になったものだと記しています。(無名抄)
これは大津市にある黒主神社のこと。伝説的歌人を祀ったものでは、ほかに蝉丸神社や猿丸神社もあります。実在が不確かな人物でも時を経れば神になり得るので、黒主もその例のひとつなのでしょう。

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