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狂画の鬼才「河鍋暁斎」(その二十二) [河鍋暁斎]

(その二十二)「亀と蛙」(フリーア美術館蔵一)

 暁斎の「蛙」は、暁斎の分身のようなものが多いのだが、この「亀」に噛み殺されるような「蛙」の表情はリアルである。

亀と蛙.jpg

Folio from an album of miscellaneous drawings and notes
Type Album leaf
Maker(s) Artist: Kawanabe Kyōsai 河鍋暁斎 (1831-1889)
Historical period(s) Edo period or Meiji era, 1615-1912
Medium  Ink and color on paper
Dimension(s) H x W (page): 26.7 x 38 cm (10 1/2 x 14 15/16 in)
Geography Japan

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狂画の鬼才「河鍋暁斎」(その二十一) [河鍋暁斎]

(その二十一)「風俗鳥獣画帖」(その裏三 髑髏と蜥蜴)

髑髏と蜥蜴.jpg

「風俗鳥獣画帖」(その十三(裏三 髑髏と蜥蜴)絹本着色 (各一九・一×一四・六cm)
『特別展覧会 没後一二〇年記念 絵画の冒険者 暁斎 近代へ架ける橋(京都国立博物館)』所収「作品解説9」
「人は死ぬ。必ず死ぬ。その恐怖を忘れるために宗教が、はたまた哲学が生まれる。だが、宗教者も哲学者も、要するに死ぬ。この限りない公平さが宇宙を支えている。素晴らしい。その素晴らしさを絵にすればこうなる。満月のもとに暗く浮かぶ神社(日本人の心の故郷)を背景に、しゃれこうべが浮かびあがり、そのうつろな眼窩をひょいと蜥蜴が通り抜けてゆく。この蜥蜴もやがて死ぬ。文字も音楽も表現できない絵画の凄みがここにある。」
(『もっと知りたい 河鍋暁斎(狩野博幸著)』)

 この「風俗鳥獣画帖」の、最後を飾る「髑髏と蜥蜴」は、暁斎が学んだ狩野派(駿河台派)の「絵画(本画)」の世界のものではなく、また、その幼少時に学んだ歌川派(国芳派)の「浮世絵(肉筆画)」の世界でもない。
 強いて、そのルーツを探るならば、北斎の晩年の頃の「画狂人」「画狂老人」時代の、その画号の意味するところの「狂画」の世界とでも分類することが、一番似つかわしいという印象を深くする。
  この「髑髏と蜥蜴」のような、「髑髏」や「蜥蜴」を画題の中心に据えることは、「武家もの」(「武家社会」の武士階級が好む画題)を主体とする「狩野派」の世界とは異質のものと言えるであろう。
 これは「町人もの」(「商・工業者を中心とする町人文化」の画題)として発展して来た「浮世絵」などの特殊な画題で、当時の「蘭学」などの「解剖図」や「見世物」の「カラクリなどの仕掛けもの」などとの関連で浮かび上がって来るものであろう。
 北斎には、五十五歳の時に、その初編が刊行され、九十歳で亡くなった後も出版は続き、明治十七年(一八七八)に、その十五編が刊行されて完結した、六十四年に亘っての、江戸時代のベストセラー・ロングセラーとでも言える「絵手本集」の『北斎漫画』がある。
 これは、まさに「絵で見る江戸百科」とでも言えるもので、そこには、北斎の生涯の総決算とも言うべき「人物・動植物・風景・建築・幽霊・妖怪」等々、北斎を取り巻く神羅万象が全て網羅されている。
 事実、暁斎の、この「髑髏と蜥蜴」は、北斎の「百物語-しうねん」に関係するものなのかも知れない。落款は「為一筆」で、版元は不明、天保二年(一八三一)から三年(一八三二)頃の版行とされている。タイトルからすると百枚シリーズもののようであるが、「こはだ小平次」「さらやしき」「笑いはんにゃ」、そして、問題の次の「しうねん」の五作しか確認されていない。
 ここで、北斎の「百物語―しうねん」は、次の「位牌(戒名)・骨箱と蛇(骨箱から這い出て来る蛇)」などのものなのだが、これが、何やら「謎」を秘めているようなのである。

北斎・百物語.jpg

北斎筆「百物語-しうねん」中判錦絵 葛飾北斎美術館蔵 天保元年(一八三〇) 東京国立博物館蔵

http://www.photo-make.jp/hm_2/hokusai_kisou.html

この「位牌」の「戒名」などは、「茂問爺院無嘘信士」とあり、この「茂問爺(ももんぢぢ)」とは何か(?)

これの解くヒントは、上の梵字なのかも知れない。これは、「女の横顔」なのである。即ち、(「茂問爺(ももんぢぢ)」=「女好き」→「無嘘(うそをつかない)」→「信士」)ということに相成る(?)

これは、北斎の真筆とされているが、ここまで、「画狂人卍」こと「北斎」その人が、かかる説明書き的な「卍」字を遺すものなのかどうか(?) やや、北斎工房の北斎門弟の手が入っているのかも知れない(?)

「北斎」も「暁斎」も、上記の解説文の「文字も音楽も表現できない絵画の凄みがここにある」ということになると、やや、「文字」そのものに頼っているという印象は拭えない(?)

それは、それとして、北斎の、この「百物語―しうねん」の、その「しうねん(執念)」を、
「北斎」の異名を継ぐ「暁斎」(「画狂人北斎の『狂=暁』と『北斎=斎』」)こと「狂斎」が、己の「風俗鳥獣画帖」の最後の一葉に、その「しうねん(執念)」を取り込んだということは、決して眉唾ものではなかろう。

とすると、この暁斎の「髑髏と蜥蜴」(裏・三図)は、「前々図(裏・一図)の『達磨の耳かき』の『美人』も、前図(裏・二図)の『お多福』の『醜女』も、死ねば、皆同じく、『髑髏(しゃれこうべ)』と化し、その化身のように、生前の華麗な衣装のごとき鱗を輝かせながら、『蜥蜴』が、眼窩からニョロリと這い出て来る」というようなことであろう(?)

もう一つ、この「蜥蜴」の鱗は、同じく、北斎の「百物語―さらやしき」の、その「皿でつなげたろくろ首」の文様に親近感があるようにも思えるのである。

さらやしき.jpg

北斎筆「百物語-さらやしき」中判錦絵 葛飾北斎美術館蔵 天保元年(一八三〇) 東京国立博物館蔵


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狂画の鬼才「河鍋暁斎」(その二十) [河鍋暁斎]

(その二十)「風俗鳥獣画帖」(その裏二 お多福)

お多福.jpg

「風俗鳥獣画帖」(その十三(裏二)お多福)絹本着色 (各一九・一×一四・六cm)
『特別展覧会 没後一二〇年記念 絵画の冒険者 暁斎 近代へ架ける橋(京都国立博物館)』所収「作品解説9」

 「お多福」も、暁斎の好みの画題であった。様々な「お多福」図があるが、上記のものは、「お多福と鬼」の取り合わせもので、鬼が、お多福のお誘いに、蓑笠で姿を隠すようにして怖気づいているような図柄である。
 お多福は、「福助」と「お多福」との対になると、縁起物の「吉祥画」になるが、ここでは、「男に敬遠される醜女(しこめ)」を意味しているのであろう。
 前図(「達磨の耳かき」)との関連で行くと、「志操堅固の達磨すら、美人に耳かきをされると、フニャフニャになる」が、「お多福のような醜女が、お出で、お出でをすると、醜男の鬼すら、クワバラクワバラと逃げ惑う」ということになる。

 この暁斎の「醜女」の「お多福図」の最高傑作画とされているのが、次のものである。
醜女.jpg

暁斎筆「お多福図」一幅 明治八年(一八七五) 一〇〇×二七・五cm
福富太郎コレクション資料室蔵

「暁斎四十五歳のときの作。いわゆる醜女(しこめ)の代名詞であるお多福を描いたものとして、尾形光琳のそれ以来の傑作というをはばからない。左褄(ひだりづま)をとるものの、足袋を履いているから花街(かがい)の女でないのは確か。小袖の文様の精緻な描写にも注目すべきで、暁斎画の真骨頂はこんなところにもうかがえる。」
(『もっと知りたい 河鍋暁斎(狩野博幸著)』)


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狂画の鬼才「河鍋暁斎」(その十九) [河鍋暁斎]

(その十九)「風俗鳥獣画帖」(その裏一 達磨の耳かき)

達磨の耳かき.jpg

「風俗鳥獣画帖」(その十二(裏一)達磨の耳かき)絹本着色 (各一九・一×一四・六cm)
『特別展覧会 没後一二〇年記念 絵画の冒険者 暁斎 近代へ架ける橋(京都国立博物館)』所収「作品解説9」

 これは、「風俗鳥獣画帖」の十二図目に当たるのだが、これまでの「表面」ではなく、ここからは、「裏面」の「その一図」ということになる。「表面」と「裏面」との、これまた、「俳諧用語」ですると、「表」と「裏」、「表」の世界が、「俳諧式目(ルール)」に従って展開されるのに比して、「裏」の世界は、臨機応変の、言わば、「奇手の応酬」といいうことになる。
 この「奇手の応酬」の一句目は、暁斎得意の「達磨と美人図」である。今回の美人は、喜多川歌麿風の美人であるが、鈴木春信風の美人とか、その時の「場」に応じて。暁斎は、多種多様な「達磨と美人図(又は吉原図)」を描いている。
 そして、これらの暁斎の「達磨と美人図」の源流は、京都画壇の主流を占めた、円山応挙(「円山派」と「円山四条派」の頭目)に対抗する京都画壇の異端の頭目とも言うべき、曽我蕭白(「曽我蛇足十世」を自称)に因っていると解して差し支えなかろう。
 その蕭白は、「画が欲しいなら自分に頼み、絵図が欲しいなら円山主水(応挙)が良いだろう」と語ったとか(『近世名家書画談(安西雲煙著)』)、この言ですると、「風俗鳥獣画帖」の「表・一図~十一図」は、「狩野派・応挙派」の「絵図(本画)」で、この「裏・一図」からは、「蕭白派・暁斎派」の「画(狂画)」ということになる。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306129451-1


蝦蟇仙人.jpg

蕭白筆「群仙図屏風」の「左隻」(部分図・西王母と蝦蟇仙人)

達磨一.jpg

蕭白筆「達磨図」

美人一.jpg

蕭白筆「美人図」



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狂画の鬼才「河鍋暁斎」(その十八) [河鍋暁斎]


(その十八)「風俗鳥獣画帖」(その十一 家猫捕鼠)

家鼠捕鼠.jpg

「風俗鳥獣画帖」(その十一 家猫捕鼠)絹本着色 (各一九・一×一四・六cm)
『特別展覧会 没後一二〇年記念 絵画の冒険者 暁斎 近代へ架ける橋(京都国立博物館)』所収「作品解説9」

 ここまで来ると、この「図十一」の「家猫捕鼠」の、この「家猫」は、「徳川幕藩体制の祖」の「徳川家康」の、その「巨大猫」ということになろう。そして、この「捕鼠」は、前々図(九図)の「前田犬千代(利長)」ということになろう。

http://www.hokkoku.co.jp/kagakikou/toshiie/index.html

 秀吉が没した翌年の1599年(慶長4年)、利家は秀吉の遺言に従い、幼い秀頼を伴って大阪城へ入城した。長男・利長、二男・利政も入り、病気をおして、前田家総力で秀頼を助ける体制を敷く。伏見城の家康が独断専行の兆しを見せると、利家は石田三成ら五奉行に担ぎ出され、一触即発の緊張が走った。結局、和解することになったが、その交渉に自ら伏見城に赴いたのは、「私の死後、法度に背く者があれば単身で当事者を訪ねて意見せよ。それで斬られるのは私に殉じることと同じ忠義の現れである」という、生前の秀吉の言葉からだった。利家は、家康に自分を斬らせて、討伐の大義名分を得るつもりだったのだ。しかし、家康は誘いに乗らず、譲歩を重ねて、和解に応じた。
 それから一カ月後、利家の病状は重くなり、今度は家康が利家を見舞った。このとき、利家が長男・利長に「心得ているな」と念を押すと、利長は「もてなしの準備は整っています」と答えた。利家は、家康に後事を託した。家康が帰ると、利家は布団の中から刀を取り出し、差し違えてでも家康を斬るつもりだったことを利長に告げた。そして、機を読みとれなかった息子に「お前に器量 が有れば家康を生かして帰しはしなかったのに」と嘆いたという。
 1599年(慶長4年)の閏3月3日、秀頼の行く末を案じながら、六十三歳で利家はこの世を去った。まつに筆記させた遺言に従って、遺体は金沢の野田山に埋葬された。 関ヶ原の合戦は翌年9月。家督を継いだ利長は、出家した生母・芳春院(まつ)を江戸へ人質に出し、領地の安泰を図った。利家が息子に託した願いはかなわなかったが、そのおかげで前田家は生き残り、加賀百万石の伝統文化を花開かせることになった。

※ 因みに、この「家猫捕鼠」の、この「猫」の図は、徳川家康を祭った「日光東照宮」の
左甚五郎作の「眠り猫」の化身のようでもある。

https://www.toshogu.jp/shaden/photo/back_img12.html

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狂画の鬼才「河鍋暁斎」(その十七) [河鍋暁斎]

(その十七)「風俗鳥獣画帖」(その十 敗荷と白鷺)

 この十図「敗荷(やれはす)と白鷺」から、「風俗鳥獣画帖」の「鳥獣画」ということになる。鳥羽僧正の『鳥獣戯画』は、暁斎の「鳥獣戯画」の模範とするものであった。そして、鳥羽僧正の『鳥獣戯画』が、「ウサギ・カエル・サル」などを擬人化して、当時の世相の諷刺を狙っているように、暁斎のそれも、背後に、何らかの寓意や諷刺を潜ませているのが常である。
 そして、暁斎の場合は、動物などを擬人化したものの他に、「絵手本」的な「動物画」そのものもあり、「諷刺画」的な「動物画」なのか、それとも、純然たる「動物画」なのかが、甚だ判然としないものが多い。

敗荷白鷺二.jpg

「風俗鳥獣画帖」(その十 敗荷と白鷺)絹本着色 (各一九・一×一四・六cm)
『特別展覧会 没後一二〇年記念 絵画の冒険者 暁斎 近代へ架ける橋(京都国立博物館)』所収「作品解説9」

 この十図の「敗荷と白鷺」も、一見すると「敗(や)れ荷(はす・はちす)を背景とした白鷺」の「絵手本」的なものという印象が強い。しかし、前図(九図)の「前田犬千代(利長)の奮戦」の、次の図ということになると、この図の背後には、やはり、何らかの寓意や諷刺が込められているものと解したい。
 「前田犬千代(利長)」といえば、当然に、「太閤秀吉」との関係が浮かび上がって来る。
とすると、この「白鷺」は、「白鷺城(しらさぎじょう・はくろじょう)」の別名の「出世城」(羽柴秀吉が居城し、その後の出世の拠点となったことから呼ばれる)を意味するところのものとなって来る。
 そして、この「敗(やれ)荷(はす・はちす)」は、「豊臣家の滅亡」を象徴すものという連想が自然と湧いて来る。これが、「豊臣家」の家紋の「桐」などと絡ませると、これこそ、「享保・寛政・天保の改革など」の「政治・思想統制、綱紀粛正」違反として、処罰の対象となって来るところのものであろう。
 ずばり、この暁斎の「敗荷と白鷺」の図(十図)は、「豊臣家の栄華(白鷺)盛衰(敗荷)」を象徴するものと解したい。

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狂画の鬼才「河鍋暁斎」(その十六) [河鍋暁斎]

(その十六)「風俗鳥獣画帖」(その九 前田犬千代(利家)の奮戦)

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「風俗鳥獣画帖」(その九 前田犬千代(利長)の奮戦)絹本着色 (各一九・一×一四・六cm)
『特別展覧会 没後一二〇年記念 絵画の冒険者 暁斎 近代へ架ける橋(京都国立博物館)』所収「作品解説9」

 前図(八図)の「平井保昌」は、「酒呑童子という『鬼』を征伐」した勇将に由来し、その「保昌の沈勇」とは、「袴垂と名乗る大盗賊の親分」が襲い掛かろうとするのを、「悠然と笛を吹いて、未然に防いだ」という、その内に秘めた「沈勇」というようなことなのであろう。
 それに対して、この「前田犬千代(利長)の奮戦」(図九)は、利長の「犬千代」時代に「槍の又左衞門、槍の又左」との異名を有するほどの勇将で、その「犬千代の奮戦」とは、「桶狭間の戦い」「森部の戦い」などの「奮戦」を指し、その「奮戦ぶり」は、平井保昌の「沈勇」とは正反対にし、派手な「傾奇者」の「猛勇」というようなことなのであろう。
 しかし、「平井保昌」(八図)の次に、「前田犬千代」(九図)を持って来るのは、暁斎が仕掛けている「謎」で、それは、恐らく、その「奮戦」ぶりを、「鬼神も三舎を避ける 前田犬千代の奮戦」などと称えられていたことと関係しているように思われる。
 この「鬼神も三舎を避ける」とは、「鬼神すら、三舎(古代中国の軍隊の三日分の行程=長い距離)ほど退却する」というようなことであろう。
 ここに、「平井保昌」(図八)の「鬼退治」と、「前田犬千代」(図九)の「鬼神も避ける奮戦ぶり」との、「鬼」が、両者のキィワードということになる。

https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/35817427.html

国史画帖『大和桜』㊴ 鬼神も三舎を避ける 前田犬千代の奮戦・・

永禄三年(1560年)五月、今川義元駿河、遠江、三河の軍勢四万六千を率い、桶狭間を本陣として先ず織田方の丸根、鷲津の二城を攻め立て、一挙に陥れんとした。
 この時、織田軍に前田犬千代(後に利家と改め、加賀、越前、能登を領し百万石の城主大納言)と云う豪の者があった。
 犬千代は十四才にして小姓として織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持っていた。

 信長の小姓頭を務めていたが勘気に触れ謹慎中、計らずも今川の大軍が押し寄せるとの報を聞き、この際命を捨て功を立てずんば、何時を期してか赦免されんと密かに丸根城主佐久間大学に従って、性来の豪胆槍を以って、敵軍を一手に引き留めて奮戦した。
 後敵将、朝比奈備中守一万五千余を率い、織田勢大隅守二千余騎の中に真一文字に斬り入って来るのを見た。

 二十二才の犬千代、猛虎飛勇の気を振るいて、群がる敵を突きまくり勇気百倍する折から、朝比奈の組下宍戸弥五郎と云う大剛の勇士が、槍引っ提げて犬千代の脇腹目がけて突き来るを一槍で見事討ち取るところへ、今川の将、江間左京正面より、かかるを得たりと身を交わして突き殺し、名だたる敵の騎馬武者十七騎を討って落とし、其余の手負い数知れず。

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狂画の鬼才「河鍋暁斎」(その十五) [河鍋暁斎]

(その十五)「風俗鳥獣画帖」(その八 平井保昌の沈勇)

平井保正.jpg

「風俗鳥獣画帖」(その八 平井保昌の沈勇)絹本着色 (各一九・一×一四・六cm)
『特別展覧会 没後一二〇年記念 絵画の冒険者 暁斎 近代へ架ける橋(京都国立博物館)』所収「作品解説9」

 この「平井保昌」については、下記のとおり。

http://www.kitaoka-jinja.or.jp/about_kitaoka/syousai1.html



藤原保昌は、天徳二年(958)~長元九年(1036)の人物とされ、摂津国平井に居住していたことから平井保昌とも称し、当時栄華を極めていた藤原道長の家司(けいし)として仕えていました。
 公家の出身でありながら武勇に秀でており、「尊卑分脈」(そんぴぶんみゃく)では、勇気があり武略に優れた人物であったと称え、「今昔物語集」にも「兵の家にて非ずと云えども心猛くして弓箭(武芸)の道に達せり」と記されており、道長四天王の一人として名声を博していました。
 その武勇を物語る話も伝わっております。有名なものに、源頼光を始め金太郎で知られる坂田金時らと共に大江山に棲む酒呑童子(しゅてんどうじ)という鬼を征伐した、という伝承があります。
 また、「今昔物語集」と「宇治拾遺物語」には袴垂(はかまだれ)との逸話が記されています。「袴垂と名乗る大盗賊の親分が朧(おぼろ)月夜の下、笛を奏でながらたった一人でゆっくりと歩く男を見つけた。袴垂は身ぐるみを奪おうと近づいたが、男は全く怯える様子もなく、逆にその堂々とした気迫に圧倒され何もできずに男の屋敷で着物を恵んでもらった」とあり、「この男の名は藤原保昌であった」という内容です。強剛なだけでなく笛の名手でもあり、風雅な一面もあわせもっていたことが覗えます。
 道長の信頼は厚く、この保昌を肥後国司として赴任させることとなりました。道長の日記である「御堂関白記」(みどうかんぱくき)には、保昌が肥後守を命じられて寛弘二年(1005)に熊本に赴いたことが記されています。これは、この当時、肥後国では国司が殺されるなど治安が非常に悪かったため、武勇の誉れ高い保昌に任せられたとされています。

京国司神社(境内)

 一方、当神社の社伝『祇園宮御由来其外一式記録』(寛政二年)にある「祇園宮御勧請式」によると、保昌が府中鎮護と疫病退散ため八坂神社の御分霊を承平四年(934)に、肥後国府へ勧請され祇園社として祀ったとされております。このことは「肥後国誌」にも同じ年代で記されており、前述の「御堂関白記」による保昌が肥後に赴任したとされる時期と当神社の創建年代には差異が生じていますが、当神社では、承平四年を勧請創建年代として代々受け継がれ今に伝えられています。
 また、熊本市にある健軍神社にも「承平年中肥後守保昌修宮殿」との伝承により保昌が承平年間に社殿を修復したことがあり、熊本の各地には「ほうしょうという国司があちこちの神社を修繕した」とも伝わっており、保昌が敬神の念厚く神社再建にも力を注いでいたことが窺い知れます。

和泉式部

 後に、肥後を離れ丹後守として当地へ赴く頃に、情熱的な恋愛歌を多く残したといわれる歌人の和泉式部と結婚しました。八坂神社には祇園祭の山鉾の一つに、保昌に因んだ「保昌山(ほうしょうやま)」といわれるものが行列に加わっています。その姿は、太刀鎧をつけ勇ましい格好の保昌が、紅梅をたくさん持って捧げている様子を表しています。これは、「保昌は和泉式部に惚れ、宮中に咲く梅の花を持って来て欲しいとの願いを叶えるべく、夜中に忍び込んでそれを盗み出し、見事に結婚が実った」という故事を題材にして作られており、昔はこの山鉾を「花盗人山」とも呼んでおりました。
 他に大和守や摂津守なども歴任し、まさに名実ともに優れた人物であったということは言うまでもありません。
 当神社境内に摂社として、祇園社勧請の尽力を称え、藤原保昌を御祭神と仰ぎ「京国司神社」として天下泰平・勝運守護の御神徳高き神としてお祀り申し上げております。

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狂画の鬼才「河鍋暁斎」(その十四) [河鍋暁斎]

(その十四)「風俗鳥獣画帖」(その七 大津絵)

大津絵.jpg

「風俗鳥獣画帖」(その七 大津絵)絹本着色 (各一九・一×一四・六cm)
『特別展覧会 没後一二〇年記念 絵画の冒険者 暁斎 近代へ架ける橋(京都国立博物館)』所収「作品解説9」

 「雷神」(図六)に続く、図七は、この「大津絵」である。図六と図七との関連は、図六の「雷神」から、大津絵の「鬼」を連想し、そこから「大津絵」(図七)の世界へ転じたということになる。
 「大津絵」は、「大津絵十種」といって、主たる十の画題がある。その「大津絵十種」に因んでの「大津絵節」がある。

げほうの 梯子剃り → 寿老人(外法と大黒の梯子剃り)
雷太鼓で 釣瓶とる → 雷公の太鼓釣り
お若衆は 鷹を持つ → 鷹匠
塗笠お女郎がかたげた藤の花 → 藤娘
座頭のふんどしを犬ワンワンつきや → 座頭
びっくり仰天し 腹立ち杖をばふり上げる → (座頭) 
荒気の鬼もほっきして 鉦しもく → 鬼の寒念仏
瓢箪なまずを しっかとおさえます → 瓢箪鯰
奴さんの尻ふり行列 → 槍持奴
向ふ八巻釣鐘弁慶 → 釣鐘弁慶
矢の根男子 → 矢の根

 この「大津絵」(図七)では、右の上から、「奴」→「座頭」→「藤娘」(女郎)→「鷹匠」(若衆)→「鬼」(ここは、地上での「鬼の寒念仏」など)の図柄である。
 ここで、この図六の地上での「鬼」の「角」の「片一方の角が折れている」のは、「我を折れ」という、そういう教訓が含まれているようである。
 因みに、暁斎には、「雷公の太鼓釣り」の「雷神」図もある。

雷神図一.jpg

暁斎「風神雷神図」(双幅)のうちの「雷神図」(右幅)絹本着色 河鍋暁斎記念博物館蔵
(他に「風神図(左幅)」) 右110.9×31.9  左111.0×31.9 

狂画の鬼才「河鍋暁斎」(その十三) [河鍋暁斎]

(その十三)「風俗鳥獣画帖」(その六 雷神)

鬼二.jpg

「風俗鳥獣画帖」(その六 雷神)絹本着色 (各一九・一×一四・六cm)
『特別展覧会 没後一二〇年記念 絵画の冒険者 暁斎 近代へ架ける橋(京都国立博物館)』所収「作品解説9」

 その図五の「木嵐の霊」に続いて、この「雷神」(図六)が続く。この順序からすると、前図の「木嵐の霊」は、「風神」ということになる。これは、俳諧(連句)の付合いの関係ですると、図四の「三夕」との関連では、図五は「木嵐の霊」なのだが、図六の「雷神」の関係ですると、図五は「風神」に見立て替えされているということになる。
 その関係で、この「雷神」を見て行くと、図五の「木嵐の霊」(風神)では、「空中」に「紅葉の葉が舞っている」のに比して、この図六の「雷神」では、「地上」に、「人がクワバラクワバラとチリヂリに逃げ惑っている」という図になって来る。
 しかし、この「雷神」の風貌は、暁斎の他の「雷神」に比すると、何ともユーモアのある風貌で、大きな眼を開けて、地上の人間どもが逃げ惑っている様を愉快げに見届けているようである。そして、この大きな眼は、前回紹介した、烏山石燕『画図百鬼夜行』中の「天狗」のギョロっとした眼の雰囲気なのである。
 そして、暁斎には、この「烏天狗」(「迦楼羅(かるら)」)の風貌をした「風神」図がある。

風神・烏天狗.jpg

暁斎筆「風神雷神図」 明治四年(一八七一)以降 双幅 絹本墨画 虎屋蔵 各一〇五・三×二八・八cm (左幅「風神図」の一部拡大)

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