SSブログ

広重の世界(五) [広重]

(その五)広重のスケッチ集(駿河三保之松原)

三保の松原.jpg

Album: Miscellaneous Sketches → 駿河 三保(三保之松原)
Maker(s) Artist: Utagawa Hiroshige 歌川広重 (1797-1858)
Historical period(s) Edo period, Mid-eighteenth century
School Ukiyo-e School
Medium Ink and color on paper → 紙本着色
Dimensions H x W x D (overall, album closed): 27.8 x 16.8 x 3.8 cm (10 15/16 x 6 5/8 x 1 1/2 in)

(参考)

三保の松原一.jpg

冨士三十六景「駿河三保之松原(するがみほのまつばら)」(山梨県立博物館蔵)

www.museum.pref.yamanashi.jp/4th_fujisan/03fuji/4th_fujisan_03fuji_24.htm

歌枕でもある景勝地三保の松原を雅やかな風情で描いている。三保の松原は古くから、左手の高台に清見寺、左奥に富士、右から松原の先端が伸びてくる構図で多く描かれたが、広重はさらに松原に近づき、ひときわ富士を大きくとらえている。縦長の画面に中景から遠景を重ねた俯瞰構図で、奥行きと広がりを出している。
※三保松原(静岡県静岡市清水区)
駿河湾に突き出した砂州である三保松原(三保浦)には羽衣伝説が伝わり、古代から歌枕として詠まれ、富士の景勝地として有名であった。対岸には清水湊があるため、船の出入りが描かれている。その背後の山は薩■(土へんに垂)山。

共通テーマ:アート

広重の世界(四) [広重]

(その四)広重のスケッチ集(下総堀江猫実)

堀江猫実.jpg

Album: Miscellaneous Sketches → 下総 堀江猫実(ねこざね)
Maker(s) Artist: Utagawa Hiroshige 歌川広重 (1797-1858)
Historical period(s) Edo period, Mid-eighteenth century
School Ukiyo-e School
Medium Ink and color on paper → 紙本着色
Dimensions H x W x D (overall, album closed): 27.8 x 16.8 x 3.8 cm (10 15/16 x 6 5/8 x 1 1/2 in)

(メモ)

堀江猫実二.jpg

歌川広重(初代)歌川広重(うたがわひろしげ) 安政3年(1856)/縦36cm×横25cm
船橋市図書館蔵 → 名所江戸百景 堀江ねこざね

https://www.lib.city.funabashi.chiba.jp/fukeiga8.html

下総最西端の堀江・猫実(浦安市)の海辺の情景。中央の川は境川、右側林の中に見えるのは猫実の神明社(現豊受神社)。砂浜の鳥は大膳(だいぜん)という千鳥の一種。それを千鳥無双網と称する網で捕ろうとしている。堀江・猫実は太日川(後に利根川~江戸川と改称)の三角州に成立した集落で、昭和中期までは漁業を主とし、一部で水田農業等も行うという、デルタに続く地域であった。この周辺の風景が一変するのは、昭和44年の東西線の開通後で、現在では画の面影は全くない。


共通テーマ:アート

広重の世界(三) [広重]

(その三)広重のスケッチ集(隅田川之渡)

筑波一.jpg

Album: Miscellaneous Sketches → 隅田川之渡(フリーア美術館蔵
Type Album  → 画譜(スケッチ集)
Maker(s) Artist: Utagawa Hiroshige 歌川広重 (1797-1858)
Historical period(s) Edo period, Mid-eighteenth century
School Ukiyo-e School
Medium Ink and color on paper → 紙本着色
Dimension(s) H x W x D (overall, album closed): 27.8 x 16.8 x 3.8 cm (10 15/16 x 6 5/8 x 1 1/2 in)

筑波二.jpg

広重「名所江戸百景 隅田川水神の森真崎」 (国立国会図書館蔵)

http://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail323.html?keywords=mount-tsukuba

筑波三.jpg

広重「名所江戸百景 墨田河橋場の渡かわら竈」(国立国会図書館蔵)

http://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail302.html?keywords=mount-tsukuba

(メモ)

一 水神の渡し (遠くに「筑波山」が見える)
現在の水神大橋の100 mほど下流にあった真崎稲荷と隅田川神社を結んでいた渡しで、名は隅田川神社が水神を祀っていることによるが、付近の俗称が「水神」でもあったことにもよる。歌川広重が錦絵「隅田川水神の森眞崎」に渡しを描いている。
橋場の渡し

二 橋場の渡し (遠くに「筑波山」が見える)
現在の白鬚橋付近にあった。「白鬚の渡し」とも呼ばれた。歴史的に位置や名称に変遷があったが、記録に残る隅田川の渡しとしては最も古い。律令時代の承和2年(835年)の太政官符に「住田の渡し」[3]と書かれたものが残っている。奥州、総州への古道があり、伊勢物語で主人公が渡ったのもこの渡しとされている。また、源頼朝が挙兵してこの地に入る際に、歴史上隅田川に最初に架橋した「船橋」もこの場所とされ、「橋場」という名が残ったとも伝えられている。橋場は歴史の古い土地柄から江戸時代から風流な場所とされ、大名や豪商の別荘が隅田川河岸に並び、有名な料亭も多かった。明治期に入ってからも屋敷が建ち並んでおり、とりわけ著名な三条実美の別荘である「對鴎荘」が橋場の渡しの西岸にあった。
歌川広重が錦絵「墨田河橋場の渡かわら竈」に描いた。白鬚橋の完成に伴い、大正期に廃止されたといわれる。

タグ:広重

共通テーマ:アート

広重の世界(二) [広重]

(その二)広重のスケッチ集(駿河冨士沼)

冨士沼一.jpg

Album: Miscellaneous Sketches → 駿河冨士沼(フリーア美術館蔵)
Type Album → 画譜(スケッチ集)
Maker(s) Artist: Utagawa Hiroshige 歌川広重 (1797-1858)
Historical period(s) Edo period, Mid-eighteenth century
School Ukiyo-e School
Medium Ink and color on paper → 紙本着色
Dimension(s) H x W x D (overall, album closed): 27.8 x 16.8 x 3.8 cm (10 15/16 x 6 5/8 x 1 1/2 in)

(参考)

冨士沼二.jpg

「駿河冨士沼(するがふじのぬま)」(「不二三十六景」・山梨県立美術館蔵)
富士沼(浮島沼)はそこから見る富士の大きさで知られるが、富士の絵の枠を突き破って山頂を描き、その巨大さを表している。富士沼を描くとき広重はこの方法をよく使い、『富士見百図』では、富士と沼とを俯瞰して、より写実的な描法を用いている。
※富士沼(静岡県沼津市)
 富士沼(浮島沼)は愛鷹(あしたか)山の南麓に広がる低湿地帯であり、古代・中世以来、海岸部の砂州上を通る東海道からの眺望により、景勝地となっていた。富士の麓には愛鷹山がそびえる。

広重の世界(一) [広重]

(その一)広重のスケッチ集(波濤図)

波.jpg

Album: Miscellaneous Sketches → 波濤図
Type Album          → 画譜(スケッチ集)
Maker(s) Artist: Utagawa Hiroshige 歌川広重 (1797-1858)
Historical period(s) Edo period, Mid-eighteenth century
School Ukiyo-e School
Medium Ink and color on paper → 紙本着色
Dimension(s) H x W x D (overall, album closed): 27.8 x 16.8 x 3.8 cm (10 15/16 x 6 5/8 x 1 1/2 in)

(メモ)

歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)は、江戸時代の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった[1]。かつては安藤広重(あんどう ひろしげ)とも呼ばれたが、安藤は本姓、広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない[2]。ゴッホやモネなどの画家に影響を与え、世界的に著名な画家である。
広重は、江戸の八代洲河岸(やよすがし)定火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として誕生。源右衛門は元々田中家の人間で、安藤家の養子に入って妻を迎えた。長女と次女、さらに長男広重、広重の下に三女がいた。広重は幼名を徳太郎、のち重右衛門、鉄蔵また徳兵衛とも称した。文化6年(1809年)2月、母を亡くし同月父が隠居し、数え13歳で広重が火消同心職を継ぐ。同年12月に父も死去。
幼い頃からの絵心が勝り、文化8年(1811年)15歳の頃、初代歌川豊国の門に入ろうとした。しかし、門生満員でことわられ、歌川豊広(1774年-1829年)に入門。翌年(1812年)に師と自分から一文字ずつとって歌川広重の名を与えられ、文政元年(1818年)に一遊斎の号を使用してデビュー。
文政4年(1821年)に、同じ火消同心の岡部弥左衛門の娘と結婚した。 文政6年(1823年)には、養祖父(安藤家)方の嫡子仲次郎に家督を譲り、自身は鉄蔵と改名しその後見となったが、まだ仲次郎が8歳だったので引き続き火消同心職の代番を勤めた。
始めは役者絵から出発し、やがて美人画に手をそめたが、文政11年(1828年)師の豊廣没後は風景画を主に制作した。天保元年(1830年)一遊斎から一幽斎廣重と改め、花鳥図を描くようになる。
天保3年 (1832年)、仲次郎が17歳で元服したので正式に同心職を譲り、絵師に専心することとなった。一立齋(いちりゅうさい)と号を改めた。また立斎とも号した。入門から20年、師は豊廣だけであったが、この頃大岡雲峰に就いて南画を修めている[3]。
この年、公用で東海道を上り、絵を描いたとされるが、現在では疑問視されている。翌年から「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声は決定的なものとなった。以降、種々の「東海道」シリーズを発表したが、各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けており、ともに秀作をみた。また、短冊版の花鳥画においてもすぐれた作品を出し続け、そのほか歴史画・張交絵・戯画・玩具絵や春画、晩年には美人画3枚続も手掛けている。さらに、肉筆画・摺物・団扇絵・双六・絵封筒ほか絵本・合巻や狂歌本などの挿絵も残している。そうした諸々も合わせると総数で2万点にも及ぶと言われている。
安政5年没。享年62。死因はコレラだったと伝えられる。墓所は足立区伊興町の東岳寺。法名は顕功院徳翁立斎居士。友人歌川豊国(三代目)の筆になる「死絵」(=追悼ポートレートのようなもの。本項の画像参照)に辞世の歌が遺る。
東路へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん

https://ja.wikipedia.org/wiki/歌川広重

タグ:広重

共通テーマ:アート

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。