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柿本人麿 [三十六歌仙]

https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/hiroba-column/column/column_1407.html

この「歌仙御手鑑」について、東園基量の日記『基量卿記』の貞享2年(1685)2月13日条に面白い記録がある。普請奉行・中坊秀時に下賜されたものだというのだ。中坊秀時は幕府の命により、朝仁親王(後の東山天皇)の東宮御所造営に尽力した。貞享2年2月10日には、完成したばかりの御殿に親王が移徙している。つまり、この手鑑は仕事を成し遂げた中坊秀時への宮廷からのご褒美だったという訳だ。

 この手鑑には、柿本人麿をはじめとする三十六歌仙人が一画面に一人ずつ描かれているのだが、描き方は丁寧だ。さすがに宮廷からの下賜の品だけのことはある。

 また、この手鑑の三十六図には、関白・一条冬経をはじめとする三十六人の公家たちによる詞書が記されているのだが、その顔ぶれが興味深い。当時の宮廷の状況が色濃く反映されているのだ。この4年前の延宝9年(1681)、皇位継承をめぐる小倉事件があった。そこで失脚した公家がここに全く含まれていない。また、朝仁親王の父・霊元天皇の側近が全て含まれているなどである。

 この「歌仙御手鑑」のように、宮廷から幕臣に下賜された絵画作品は多い。やはり褒美として贈られたものだ。この「歌仙御手鑑」から18年後の元禄16年(1703)、同じ山本素軒が描いた「十二ヶ月花鳥図屏風」(サンフランシスコ・アジア美術館)も宮廷から京都所司代・松平信庸に贈られたものだ。そこに関白・鷹司兼煕をはじめとする12人の公家が賛をしたためているのだが、そこにも当時の宮廷の状況が強く反映されている。

 きれいな下賜品も、当時の宮廷状況を教えてくれる歴史資料なのである。


山本素軒「歌仙御手鑑」 貞享2年(1685) 七宝庵コレクション

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宗達の「養源院障壁画」関連周辺 [俵屋宗達]

宗達の「養源院障壁画」関連周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-07

松図戸襖一.jpg

俵屋宗達筆「松図戸襖」十二面のうち四面(東側) 京都・養源院 重要文化財
(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著・至文堂)』)

 現存する宗達画で、最も大きな画面の大作は、松と岩を題材とした養源院の襖絵である。
本堂の南側の廊下に面する中央の間には、正面の仏壇側に八枚(この部分は失われて現在は伝わらない)、その左右、東西に相対して各四枚の襖絵(計八面)があり、さらに南側の入口の左右に二面ずつの戸襖(計四面)がある。
 上図は、その十二面のうちの四面(東側)で、その入口の二面(南側)は、下記の上段の、右の二面の図である。
 この六面に相対して、四面(西側)とそれに隣接しての二面(南側)の図が、下記の下段の図となる。

松図戸襖二.jpg

上段は、東側の四面とそれに隣接した入口の二面(南側)の、計六面の図
下段は、西側の四面とそれに隣接した入口の二面(南側)の、計六面の図
(『宗達(村重寧著・三彩社)』)

養源院襖配置図.jpg

養源院襖絵配置平面図(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著・至文堂)』)
上段の東側の四面と入口の二面(南側)の計六面→右から「1・2・3・4・5・6」
下段の西側の四面と入口の二面(南側)の計六面→右から「7・8・9・10・11・12」
☆現在消失の「正面の仏壇側の八面」(北側)は「6と7との間の襖八面(敷居の溝)」
下記の「白象図」→上記平面図の5・6
下記の「唐獅子図」(東側)→上記平面図の7・8
下記の「麒麟図又は水犀図」→上記平面図の3・4
下記の「唐獅子図」(西側)→上記の平面図1・2

白象図.jpg

伝宗達筆「白象図」 杉戸二面 板地着色 各182×125cm(上記平面図5・6)重要文化財

唐獅子一.jpg

伝宗達筆「唐獅子図」(東側) 杉戸二面 板地着色 各182×125cm(上記平面図7・8)
重要文化財

麒麟図.jpg

伝宗達筆「麒麟図」又は「水犀図」 杉戸二面 板地着色 各182×125cm(上記平面図3・4)
重要文化財
唐獅子二.jpg

伝宗達筆「唐獅子図」(西側) 杉戸二面 板地着色 各182×125cm(上記平面図1・2)
重要文化財


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