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狂画の鬼才「河鍋暁斎」(その十六) [河鍋暁斎]

(その十六)「風俗鳥獣画帖」(その九 前田犬千代(利家)の奮戦)

前田犬千代一.jpg

「風俗鳥獣画帖」(その九 前田犬千代(利長)の奮戦)絹本着色 (各一九・一×一四・六cm)
『特別展覧会 没後一二〇年記念 絵画の冒険者 暁斎 近代へ架ける橋(京都国立博物館)』所収「作品解説9」

 前図(八図)の「平井保昌」は、「酒呑童子という『鬼』を征伐」した勇将に由来し、その「保昌の沈勇」とは、「袴垂と名乗る大盗賊の親分」が襲い掛かろうとするのを、「悠然と笛を吹いて、未然に防いだ」という、その内に秘めた「沈勇」というようなことなのであろう。
 それに対して、この「前田犬千代(利長)の奮戦」(図九)は、利長の「犬千代」時代に「槍の又左衞門、槍の又左」との異名を有するほどの勇将で、その「犬千代の奮戦」とは、「桶狭間の戦い」「森部の戦い」などの「奮戦」を指し、その「奮戦ぶり」は、平井保昌の「沈勇」とは正反対にし、派手な「傾奇者」の「猛勇」というようなことなのであろう。
 しかし、「平井保昌」(八図)の次に、「前田犬千代」(九図)を持って来るのは、暁斎が仕掛けている「謎」で、それは、恐らく、その「奮戦」ぶりを、「鬼神も三舎を避ける 前田犬千代の奮戦」などと称えられていたことと関係しているように思われる。
 この「鬼神も三舎を避ける」とは、「鬼神すら、三舎(古代中国の軍隊の三日分の行程=長い距離)ほど退却する」というようなことであろう。
 ここに、「平井保昌」(図八)の「鬼退治」と、「前田犬千代」(図九)の「鬼神も避ける奮戦ぶり」との、「鬼」が、両者のキィワードということになる。

https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/35817427.html

国史画帖『大和桜』㊴ 鬼神も三舎を避ける 前田犬千代の奮戦・・

永禄三年(1560年)五月、今川義元駿河、遠江、三河の軍勢四万六千を率い、桶狭間を本陣として先ず織田方の丸根、鷲津の二城を攻め立て、一挙に陥れんとした。
 この時、織田軍に前田犬千代(後に利家と改め、加賀、越前、能登を領し百万石の城主大納言)と云う豪の者があった。
 犬千代は十四才にして小姓として織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持っていた。

 信長の小姓頭を務めていたが勘気に触れ謹慎中、計らずも今川の大軍が押し寄せるとの報を聞き、この際命を捨て功を立てずんば、何時を期してか赦免されんと密かに丸根城主佐久間大学に従って、性来の豪胆槍を以って、敵軍を一手に引き留めて奮戦した。
 後敵将、朝比奈備中守一万五千余を率い、織田勢大隅守二千余騎の中に真一文字に斬り入って来るのを見た。

 二十二才の犬千代、猛虎飛勇の気を振るいて、群がる敵を突きまくり勇気百倍する折から、朝比奈の組下宍戸弥五郎と云う大剛の勇士が、槍引っ提げて犬千代の脇腹目がけて突き来るを一槍で見事討ち取るところへ、今川の将、江間左京正面より、かかるを得たりと身を交わして突き殺し、名だたる敵の騎馬武者十七騎を討って落とし、其余の手負い数知れず。

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