SSブログ

北斎の狂句(その三) [北斎の狂句]

その三 焼いて見つ煮て見つ鯛の古さ哉

焼いて見つ煮て見つ鯛の古さ哉(かな)  百姓 天保十二年(一八四一)

●「腐っても鯛」の「捩り」=「腐っても鯛」=「もともと立派なものや優れた価値のあるものは、落ち目になったり悪条件のもとにおかれても、なおそのよさや品格を保つことのたとえ。(略) 

https://kotobank.jp/word/%E8%85%90%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%82%82%E9%AF%9B-483208

[解説] 古くは、中国にならい鯉を最上位の魚としましたが、江戸中期には、姿や色が美しく味もよいことから、鯛を最高級の魚と評価するようになりました。また、「めでたい」に通じることから祝い膳に欠かせないものとなり、進物にも用いられました。福の神の恵比須が抱えているのも鯛で、正月には干鯛二尾を縄で結び合わせ、かまどや門松にかけて飾る懸け鯛もありました。
 「腐っても」という背景には、正月に塩焼きにして飾った鯛を、後日、吸い物や煮物などにする風習があったようです。鯛は身がしっかりしていて、少し古くなって多少臭ってきても、外見があまり変わらず、品位を保っているように見えることから言い出されたものでしょう。ことわざは比喩的に使われ、品物とかぎらず、没落した旧家や大店などについていうことが少なくありません。(出典「ことわざを知る辞典」)

●「起きて見つ/寝て見つ/蚊帳の/広さかな」の「本歌取り(本句取り・文句取り)」=起きて見つ寝て見つ蚊帳の広さかな」(「千代女」の作とも「浮橋」の作ともいわれている。)

https://sakuramitih31.blog.fc2.com/blog-entry-4904.html

意味=恋しい人を思って一人寝をするとなかなか寝つけず、起き上がって見、また横になって見てつくづく蚊帳の広さを感じることだ。主人が亡くなって一人で寝る蚊帳の広さ。
作者=浮橋=うきはし。生没年未詳。江戸前期の人。吉原の有名な遊女。千代女の句ともいわれている。(出典・福武書店「名歌名句鑑賞事典」)

句意=正月元旦のおめでたい「お頭付きの鯛」、「にらみ鯛」で、正月三が日、「起きて見っ・寝て見っして」、そのまま「箸を付けない」で、さて、四日目に、「焼いて見つ・煮て見つ」したが、やはり硬くなって風味は落ちて、もう、これは、「出し汁」に仕上げる以外に術ない。即ち、「鯛の古さかな」の「句狂人卍・月痴老人北斎・百姓八右衛門=百姓」の狂句とあいなった。(やや、興に乗りすぎた句意で、「焼いてみても、煮てみても、これはこれ、腐っても『鯛』で、恰好は良いのだが、どうにも食えたものではない」というのが無難か?)

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/10/blog-post_25.html

「宝船の七福神 葛飾北斎筆 」 江戸時代・19世紀 (東京国立博物館蔵)

https://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2013/12/27/%E5%8C%97%E6%96%8E%E3%81%AE%E5%AE%9D%E8%88%B9/

『正月になると初夢で一年を占いました。元日の夜(あるいは2日の夜)に見るのが初夢とされ、良い夢を見るために、宝船売りが縁起のよい宝船の絵を売り歩きました。これを枕の下に入れて、吉夢を呼び込むのです。
 (略)
葛飾北斎が「勝川春朗」と名乗っていた30歳前後の時期に描かれた「宝船図」。
(略)
七福神が龍頭の船に乗っています。恵比須が鯛を釣り上げ、千年長寿の鶴が飛び、万年長寿の蓑亀が船に乗り込もうとしています。
 (略)
枕に敷く宝船図には、回文が添えられていたそうです。この図にも「なかきよの とをのねふりの ミなめさめ なミのりふねの をとのよきかな(長き夜の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良きかな)」とあります。
一年を占ういかにも縁起のよい夢が見られそうな作品です。』(「東京国立博物館・1089ブログ」)

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/10/blog-post_25.html

河鍋暁斎筆『狂斎百図』所収「腐っても鯛」
https://twitter.com/i/events/863604214924140547
『めでたいと言って鯛は珍重される。よいものは最後までよいことの例えだが、これでは困りますね。根付に採用されていますよ。』(「館長河鍋による 暁斎1cut」)
タグ:北斎の狂句
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

北斎の狂句(その二) [北斎の狂句]

その二 出まい洒落まい奢るまい申の暮

出まい洒落(しゃれ)まい奢(おご)るまい申(さる)の暮(くれ) 百々爺 天保九-十一年(一八三八-四〇)

●申(さる)の暮=申年の暮れ=天保七年(一八三六)丁申(ひのととり・ていゆう)の暮れ(年末)の作か(?)この年、北斎、七十七歳。
●出まい洒落(しゃれ)まい奢(おご)るまい=「見ざる言わざる聞かざるの三猿」の「捩り(もじり」(俗文芸において,滑稽を生み出すためにしばしば用いられる手法。一つの語句に異なる二つの意味を持たせる〈地口(じぐち)〉がその基本となるが,二義の取合せがちぐはぐであればあるほど,より効果的に滑稽が生じる。また,表の意味の裏にあるもう一つの意味が同時に感受されねばならないので,〈もじり〉の対象は人口に膾炙(かいしや)された文句が適する。したがって近世の俗文芸では,和漢の古典の〈雅〉の世界に当世の〈俗〉を見立てたり,こじつける趣向の〈もじり〉が多く見られる。)=「世界大百科事典 第2版」)
※百々爺=「ももんじい」=百×百=万。→ 「まんじ」=卍=北斎(?) 『謎解き北斎川柳(宿六心配著)』の説(『北斎川柳(田中聡著)』)
※百々爺(「ウィキペディア」)
『 百々爺(ももんじい)は、鳥山石燕による江戸時代の妖怪画集『今昔画図続百鬼』にある日本の妖怪。

≪ 百々爺未詳 愚按ずるに 山東に摸捫ぐは(ももんぐは)と称するもの 一名野襖(のぶすま)ともいふとぞ 京師の人小児を怖しめて啼を止むるに元興寺といふ もゝんぐはとがごしとふたつのものを合せてもゝんぢいといふ

原野夜ふけてゆきゝたえ きりとぢ風すごきとき 老夫と化して出て遊ぶ 行旅の人これに遭へばかならず病むといへり ≫

 この解説では、石燕は百々爺のことを「未詳」としながらも、原野に出没する老人の妖怪としており、通行人がこれに出遭うと病気を患うものとしている。また、文中にある「もゝんぐは(モモンガ)」は実在の動物の名前であると同時に、関東地方で化け物を意味する幼児語であり(モモンガ#「モモンガ」の名の由来も参照)、顔つきや体で怪物のような仕草をして子供を脅かす遊びをも意味しており、「がごし(ガゴジ)」も同様に徳島県などで妖怪の意味で用いられる児童語である。石燕は百々爺のことを、これら「モモンガ」と「ガゴジ」の合成語と述べている。』(「ウィキペディア」)

 この≪鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「百々爺」≫の画像は次のとおり。

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/10/blog-post_24.html

≪鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「百々爺」≫(「ウィキペディア」)

 この鳥山石燕が描く『今昔画図続百鬼』の「百々爺」に、次の「天保13年(1842年)、82歳(数え年83歳)頃の自画像(一部)」が、何処となく似通っている。

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/10/blog-post_24.html

「天保13年(1842年)、82歳(数え年83歳)頃の自画像(一部)」(「ウィキペディア」)

句意=申年の暮れ、「見ざる言わざる聞かざるの三猿」の如く、「出まい(脱浮世)・洒落まい(無風流)・奢るまい(万事泰然)」を、この「百々爺」の三か条とす。


(参考) 北斎(春朗)の「青面金剛」と「三猿」周辺

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/10/blog-post_24.html
 
北斎(春朗)の「青面金剛」と「三猿」(部分図)(太田記念美術館蔵)

https://twitter.com/ukiyoeota/status/1235849976229416971

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/10/blog-post_24.html

北斎(春朗)の「青面金剛」と「三猿」(太田記念美術館蔵)
『葛飾北斎が20代後半に描いた珍しい仏画。青面金剛という庚申信仰のご本尊。下には、「見ざる言わざる聞かざるの三猿」が描かれている。』
タグ:北斎の狂句

共通テーマ:趣味・カルチャー

北斎の狂句(その一) [北斎の狂句]

その一 除夜更てなが雪隠の二年越シ

除夜更(ふけ)てなが雪隠(せっちん)の二年越シ 卍 文政十年(一八二七)

●除夜(じょや)=おおみそかの夜。一年の最後の晩。除夕(じょせき)。《季・冬》
●雪隠(せっちん)=便所のこと。かわや。こうか。東司(とうす)。せっちん。せんち。せちん。また特に、茶室につけられた便所。
●掛取り=掛け売りの代金を受け取ること。また、その集金人。掛け乞い。掛け集め。《季・冬》 
※浮世草子・世間胸算用(1692)三「掛取(カケトリ)上手の五郎左衛門」
※団団珍聞‐一四三号(1880)「明日は元日〈略〉今夜は債乞(カケトリ)が来るから表戸(おもて)を叩いた人があったら留守だと云(いっ)ておいで」
https://senjiyose.com/archives/757

※昔は、日常の買い物はすべて掛け買いで、決算期を節季(せっき)といい、盆・暮れの二回でした。特に大晦日は、商家にとっては、掛売りの借金が回収できるか、また、貧乏人にとっては踏み倒せるかどうかが死活問題で、古く井原西鶴(1642-93)の「世間胸算用」でも、それこそ笑うどころではない、壮絶な攻防戦がくりひろげられています。むろん、江戸でも大坂でも掛け売り(=信用売り)するのは、同じ町内の生活必需品(酒、米、炭、魚など)に限ります。

句意=大晦日、今日は「掛取り」の「トリ」が、「カエセー・カエセー」とやってくる。ついつい、「便所」にこもって、除夜の更けるのを待って、新年を迎える羽目になってしまった。


慶賀・掛取り図.jpg

作品名:掛取り(川原慶賀画)  (「シーボルト・コレクション」)
●Title:Debt collection, December
●分類/classification:年中行事、12月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2022/10/blog-post.html

「掛取り・部分拡大図(川原慶賀画)」(『江戸時代 人物画帳 シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀が描いた庶民の姿(小林淳一編著)』)
『長合羽のこの人物を目にしたとき、初めは「富くじ売り」かと思った。(略) (左手にもつ)その紙片には、人の名前がはっきりと書かれている。五枚のうち向かって右から順に、「野中様」「山辺様」「海中様」、四枚目は判読不能だが、最後には「池田様」とある。そして、オランダ語の説明書きにも、「Kaketori」とローマ字で記されている。すなわち、ここに描かれた男は、掛け売りの代金を受け取る「掛取」で、紙片の名は集金先、おそらくは武家筋であろう。(以下略)』(『同書p67 029掛取)


(参考) 北斎の画号・戯作名(狂句名など)とその使用年代(『謎解き 北斎川柳(宿六心配著)』を中心に『北斎川柳(田中聡著)などで補筆)) ※は「主要狂句名」

春朗(しゅんろう) 20歳~35歳  安永8年(1779)~寛政6年(1794)頃
群馬亭(ぐんばてい)26歳~35歳  天明5年(1785)~寛政6年(1794)か?
百琳宗理(ひゃくりんそうり)36歳~38歳 寛政7年(1795)~寛政9年(1797)
俵屋宗理(たわらやそうり) 37歳 ~39歳 寛政8年(1796)~寛政10年(1798)
北斎宗理(ほくさいそうり)38歳~39歳 寛政9年(1797)~寛政10年(1798)
北斎(ほくさい) 38歳~60歳      寛政9年(1797)~文政2年(1819)
※可候(かこう)39歳~52歳    寛政10年(1798)~文化8年(1811)

不染居北斎(ふせんきょほくさい)40歳 寛政11年(1799
辰政(ときまさ)40歳~51歳      寛政11年(1799)~文化7年(1810)
画狂人(がきょうじん) 41歳~49歳    寛政12年(1800)~文化5年(1808)
※錦袋舎(きんたいしゃ)46歳~50歳   文化2年(1805)~文化6年(1809)
九々蜃(くくしん) 46歳        文化2年(1805)
画狂老人(がきょうろうじん) 46歳~47歳 文化2年(1805)~文化3年(1806)
75歳~90歳 天保5年(1834)~嘉永2年(1849)
戴斗(たいと)52歳~61歳        文化8年(1811)~文政3年(1820)
雷震(らいしん) 53歳~56歳        文化9年(1812)~文化12年(1815)
鏡裏庵梅年(きょうりあんばいねん)53歳 文化9年(1812)
天狗堂熱鉄(てんぐどうねってつ) 55歳 文化11年(1814) 

※為一(いいつ) 61歳~75歳         文政3年(1820)~天保5年(1834)
前北斎為一(ぜんほくさいいいつ) 62歳~74歳  文政4年(1821)~天保4年(1833)
不染居為一(ふせんきょいいつ) 63歳  文政5年(1822)
月癡老人(げっちろうじん) 69歳     文政11年(1828)
※卍(まんじ) 72歳~90歳           天保2年(1831)~嘉永2年(1849)
(万二・万仁・満二・満仁・万治・百々爺=ももんじい・百×百=万)
三浦屋八右衛門(みうらやはちえもん) 75歳~87歳  天保5年(1834)~弘化3年(1846)
百姓八右衛門(しゃくしょう八右衛門)75歳~87歳 天保5年(1834)~弘化3年(1846)
土持仁三郎(つちもちにさぶろう) 75歳       天保5年(1834)
藤原為一(ふじわらいいつ)88歳~90歳     弘化2年(1846)~嘉永2年(1849)



タグ:北斎の狂句
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

柿本人麿 [三十六歌仙]

https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/hiroba-column/column/column_1407.html

この「歌仙御手鑑」について、東園基量の日記『基量卿記』の貞享2年(1685)2月13日条に面白い記録がある。普請奉行・中坊秀時に下賜されたものだというのだ。中坊秀時は幕府の命により、朝仁親王(後の東山天皇)の東宮御所造営に尽力した。貞享2年2月10日には、完成したばかりの御殿に親王が移徙している。つまり、この手鑑は仕事を成し遂げた中坊秀時への宮廷からのご褒美だったという訳だ。

 この手鑑には、柿本人麿をはじめとする三十六歌仙人が一画面に一人ずつ描かれているのだが、描き方は丁寧だ。さすがに宮廷からの下賜の品だけのことはある。

 また、この手鑑の三十六図には、関白・一条冬経をはじめとする三十六人の公家たちによる詞書が記されているのだが、その顔ぶれが興味深い。当時の宮廷の状況が色濃く反映されているのだ。この4年前の延宝9年(1681)、皇位継承をめぐる小倉事件があった。そこで失脚した公家がここに全く含まれていない。また、朝仁親王の父・霊元天皇の側近が全て含まれているなどである。

 この「歌仙御手鑑」のように、宮廷から幕臣に下賜された絵画作品は多い。やはり褒美として贈られたものだ。この「歌仙御手鑑」から18年後の元禄16年(1703)、同じ山本素軒が描いた「十二ヶ月花鳥図屏風」(サンフランシスコ・アジア美術館)も宮廷から京都所司代・松平信庸に贈られたものだ。そこに関白・鷹司兼煕をはじめとする12人の公家が賛をしたためているのだが、そこにも当時の宮廷の状況が強く反映されている。

 きれいな下賜品も、当時の宮廷状況を教えてくれる歴史資料なのである。


山本素軒「歌仙御手鑑」 貞享2年(1685) 七宝庵コレクション

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

宗達の「養源院障壁画」関連周辺 [俵屋宗達]

宗達の「養源院障壁画」関連周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-07

松図戸襖一.jpg

俵屋宗達筆「松図戸襖」十二面のうち四面(東側) 京都・養源院 重要文化財
(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著・至文堂)』)

 現存する宗達画で、最も大きな画面の大作は、松と岩を題材とした養源院の襖絵である。
本堂の南側の廊下に面する中央の間には、正面の仏壇側に八枚(この部分は失われて現在は伝わらない)、その左右、東西に相対して各四枚の襖絵(計八面)があり、さらに南側の入口の左右に二面ずつの戸襖(計四面)がある。
 上図は、その十二面のうちの四面(東側)で、その入口の二面(南側)は、下記の上段の、右の二面の図である。
 この六面に相対して、四面(西側)とそれに隣接しての二面(南側)の図が、下記の下段の図となる。

松図戸襖二.jpg

上段は、東側の四面とそれに隣接した入口の二面(南側)の、計六面の図
下段は、西側の四面とそれに隣接した入口の二面(南側)の、計六面の図
(『宗達(村重寧著・三彩社)』)

養源院襖配置図.jpg

養源院襖絵配置平面図(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著・至文堂)』)
上段の東側の四面と入口の二面(南側)の計六面→右から「1・2・3・4・5・6」
下段の西側の四面と入口の二面(南側)の計六面→右から「7・8・9・10・11・12」
☆現在消失の「正面の仏壇側の八面」(北側)は「6と7との間の襖八面(敷居の溝)」
下記の「白象図」→上記平面図の5・6
下記の「唐獅子図」(東側)→上記平面図の7・8
下記の「麒麟図又は水犀図」→上記平面図の3・4
下記の「唐獅子図」(西側)→上記の平面図1・2

白象図.jpg

伝宗達筆「白象図」 杉戸二面 板地着色 各182×125cm(上記平面図5・6)重要文化財

唐獅子一.jpg

伝宗達筆「唐獅子図」(東側) 杉戸二面 板地着色 各182×125cm(上記平面図7・8)
重要文化財

麒麟図.jpg

伝宗達筆「麒麟図」又は「水犀図」 杉戸二面 板地着色 各182×125cm(上記平面図3・4)
重要文化財
唐獅子二.jpg

伝宗達筆「唐獅子図」(西側) 杉戸二面 板地着色 各182×125cm(上記平面図1・2)
重要文化財


共通テーマ:趣味・カルチャー

後鳥羽院撰「時代不同歌合」その三 [時代不同歌合]

その三 中納言家持と藤原清輔(再撰本=中納言国信)

家持と国信.jpg

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he04/he04_01584/he04_01584_p0005.jpg

藤原清輔.jpg

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he04/he04_01584/he04_01584_p0012.jpg

七番
   左                中納言家持
まきもくのひばらもいまだくもらぬに小松が原にあは雪ぞふる(新古今春上)
   右                藤原清輔
たつた姫かざしのたまのををよわみ乱れにけりとみゆる白露(千載秋上)
(注:再撰本では家持と国信が合わされている。「かすがののしたもえわたる草の上につれなくみゆる春の淡雪(新古今春上)=国信」)

八番
   左
かみなびの三室の山のくずかづら裏ふきかへす秋は来にけり(新古今秋上)
   右
今よりは更け行くまでに月はみじそのこととなく涙おちけり(千載雑上)
(注:再撰本では家持と国信が合わされている。「なにごとを待つとはなしにあけくれて今年もけふに成りにけるかな(金葉冬)=国信」)

九番
   左
かささぎのわたせる橋におく霜の白きをみれば夜ぞ更けにける(新古今冬)*
   右
冬がれの森のくちばの霜の上におちたる月の影のさやけさ(新古今冬)
(注:再撰本では家持と国信が合わされている。「山ぢにてそほちにけりな白露のあかつきおきの木々の雫に(新古今旅)=国信」)

(参考)

http://www.emuseum.jp/detail/100258

家持と国信二.jpg

重要文化財 1帖 紙本墨画 28.3×49.6 鎌倉時代・14世紀 東京国立博物館 A-19

(周辺メモ)

http://dep.chs.nihon-u.ac.jp/japanese_lang/pdf_gobun/158/158_02_oobushi.pdf

『時代不同歌合』の番いの研究 ――初撰本と再撰本について――(大伏春美)

2 初撰本と再撰本の番いの変更について  

本作品は藤原公任の『三十六人撰』の形式を踏襲するから、 樋口氏の指摘のように、ひとり三首ずつの秀歌をみることと、 歌合の番いとして対者との組み合わせをみることの二つの楽しみ方がある。 さて、初撰本と再撰本では、寺島氏の指摘のように四組の番いの変更が見られる。即ち

初撰本 家持――清輔、篁――国信、業平――西行、 伊勢――良経
再撰本 家持――国信、篁――西行、業平――良経、 伊勢――清輔

である。左の歌人はそのままで、右の歌人は清輔が後ろにまわってずれている。以下で具体的にみてゆくことにするが、そ の前にこの作品の番いの傾向を知るために、わかりやすい例を取り上げたい。

(初撰本=「家持と清輔」と再撰本=「家持と国信)

初撰本の家持・清輔の番いは、『万葉集』をまとめた家持に対し、六条藤家の歌学者清輔であり、私撰集の続詞花集』他 を撰びまた歌学書を多くまとめた実力者であるから、和歌に造詣の深い二人を並べ、適切な組み合わせと思われる。 一方、再撰本の家持・国信の番いの歌を見ると、それぞれの 歌もうまく対応しており、良い組み合わせと考えられる。また 国信は実力や業績は清輔に劣るにしても、堀河歌壇で活躍した 人物であり、『堀河百首』への関与や詠出、自家の歌合の主催 なども見られる。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

後鳥羽院撰「時代不同歌合」その二 [時代不同歌合]

その二 山辺赤人と法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠道)

山部赤人・藤原忠道.jpg

「時代不同歌合絵巻 : 模本. 1-4 / 後鳥羽院 撰」早稲田大学図書館蔵
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he04/he04_01584/he04_01584_p0004.jpg

四番
   左               山辺赤人
あすからは若なつまんとしめし野に昨日もけふも雪は降りつつ(新古今春上)
   右       法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠道)
漣やくにつみかみのうらさびて古き宮こに月ひとりすむ(千載雑上)

五番
   左
ももしきの大宮人はいとまあれや桜かざしてけふも暮しつ(新古今春下)
   右
おもひかねそなたの空を詠むればただ山のはにかかる白雲(詞花雑下)

六番
   左
和歌の浦に汐みちくればかたをなみ芦べをさしてたづ鳴き渡る(続古今雑上)
   右
わたの原こぎ出でてみれば久方の雲ゐにまがふ興津白波(詞花雑下)

(参考)

http://www.emuseum.jp/detail/100258

赤人・忠道二.jpg

重要文化財 1帖 紙本墨画 28.3×49.6 鎌倉時代・14世紀 東京国立博物館 A-19

(周辺メモ)

http://dep.chs.nihon-u.ac.jp/japanese_lang/pdf_gobun/158/158_02_oobushi.pdf

『時代不同歌合』の番いの研究 ――初撰本と再撰本について――(大伏春美)

1 諸本について
本作品は左右の五十人の歌人の各三首を歌合形式にしている が、百五十番に記すものと、一人三首ずつにまとめて五十番に 記すものがある。五十番の時は三首まとめての和歌の享受がされやすいと思う。また歌仙絵がある時も五十番の作品が多い。 諸本研究は樋口氏著書が詳しい。氏は諸本を六種類に分ける が、A本は孤立しており、B本がC・D・E本と展開してゆく として分類する。伝本について、樋口氏の分類を記し主な伝本 と活字本を記すと

初撰本は A本   穂久邇文庫蔵伝飛鳥井雅康筆本  日本歌学大系 甲本
    B本   群書類従巻二一五所収本  など
     C本   宮内庁書陵部蔵501・608本など 『王朝秀歌選』所収
    D本   愛知教育大学蔵本  C本と赤染衛門の歌一首の違い
再撰本は E本   宮内庁書陵部蔵501・556本など多数 F本とは後鳥羽院歌二首の違いと、西行歌の順 序の違いあり
F本    宮内庁書陵部蔵501・609本 新編国歌大観所収本

次に樋口氏・田槇氏の未紹介の本を記す。ともに早稲田大学 中央図書館蔵である三本で、再撰本である
〇『時代不同歌合』 ヘ4・1584 一巻 一軸 彩色画あり 江戸期の模本 本文は樋口氏著書分類のE本(東京国立博物館蔵 勝川雅信写本)に近似  一番に三首ずつ記す五十番本  早稲田大学図書館の検索システムWINEに画像情報あり
〇(外題なし) イ4・3164・84 一巻 一軸 明暦二年(一六五六)写 五十番本
絵なし 下巻のみ 蝉丸から宮内卿まで(二十五番から五十番まで)E本
〇『時代不同歌合』 四巻四軸 チ4・6345・1〜4 文政三年(一八二〇)古致写  
彩色画あり 五十番本 一巻は 人麿から良暹まで(一番から十七番まで)、二巻は貫之から秀 能まで(十八番から三十三番まで)、三巻は絵を部分的に模写 したもの、四巻は順から宮内卿まで(三十四番から五十番まで) を記す。四巻の内題に遠藤伴介とあり。WINEに画像情報あり F本


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

後鳥羽院撰「時代不同歌合」その一 [時代不同歌合]

その一  柿本人麿と大納言経信

人麿と経信.jpg

「時代不同歌合絵巻 : 模本. 1-4 / 後鳥羽院 撰」早稲田大学図書館蔵
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he04/he04_01584/he04_01584_p0003.jpg

一番
   左                柿本人麿
たつた河紅葉ばながるかみなびのみむろの山に時雨ふるらし(拾遺冬)
   右                大納言経信
夕さればかどたのいなばおとづれてあしのまろやに秋風ぞ吹く(金葉秋)

二番
   左
足引の山鳥のをのしだりをのながながし夜をひとりかもねん(拾遺恋三)
   右
秋のよは衣さむしろかさねても月の光りにしくものぞなき(新古今秋下)
【君が世はつきじとぞおもふかみかぜやみもすそ川のすまむかぎりは(後拾遺賀)】

三番
   左
乙女子がそでふる山のみづがきの久しき世より思ひそめてき(拾遺恋四)
   右
おきつかぜ吹きにけらしな住吉の松のしづえをあらふ白浪(後拾遺雑四)

(参考)

http://www.emuseum.jp/detail/100258

人麿と経信二.jpg

重要文化財 1帖 紙本墨画 28.3×49.6 鎌倉時代・14世紀 東京国立博物館 A-19

左に古今集、後撰和歌集、拾遺和歌集の歌人を、右に後拾遺和歌集、金葉集、詞花集、千載和歌集、新古今和歌集の歌人を配したもので、後鳥羽上皇(1180~1239)が各時代の歌人をとり合わせて歌合を創ったものである。ほんらい150番の歌からなる上下2巻のものであるが、この東京国立博物館本はその上巻、75番からなる。もともと巻子であったものを現在は切り離して画帖形式となっている。
 絵は色彩を用いない白描で、面相部が比較的細緻な筆で、体はおおらかな筆線で描かれている。原本は後鳥羽上皇の周辺で、藤原信実に代表される絵師による似絵の手法で作られたものであろうことが、ここからも想像される。時代不同歌合は他にも伝存するが、本作品は鎌倉時代にさかのぼる、しかも上巻を完存する唯一の遺品であり重要である。

(周辺メモ)

『御影御日記』の建武三年(一三三六)十ニ月二十五日に、「時代不同御絵、先皇殊被執思食之条、定被知食置歟、且御影堂御本尊、若不慮事令出来給者、以此御影可奉尊崇之由、慥承勅定二条局西御方所奉持也」とある。この「西御方」は慈光寺本『承久記』、また、『平戸記』にもその名があり、「時代不同歌合絵巻」は、後鳥羽院の在世中に制作されたものと考えて良い。『続史愚抄』によると、「光明天皇の命により、先皇の光厳院の、のちに南朝の大臣となった冷泉大納言公泰から光厳院にもたらされた。」(『日本歴史叢書 肖像画 (宮崎新一著)』の要約)


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

「百人一首」の周辺(その三) [百人一首]

その三 七夕の六歌仙(葛飾北斎筆)

六歌仙北斎・.jpg

七夕の六歌仙(葛飾北斎筆)
https://collections.mfa.org/objects/216480

(周辺メモ)

後列右から、小野小町 (おののこまち・生没年不明・歌番号9)→僧正遍昭 (そうじょうへんじょう・816-890年・歌番号12)→大伴黒主 (おおとものくろぬし・生没年不明)

前列右から、在原業平 (ありひらのなりひら・825-880年・歌番号17)→文屋康秀 (ぶんやのやすひで・生没年不明・歌番号22)→喜撰法師 (きせんほうし・生没年不明・歌番号8)

8 わが庵は都のたつみしかぞすむ 世をうぢ山と人はいふなり 喜撰法師
9 花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに  小野小町
12 天つ風雲の通ひ路吹き閉ぢよ をとめの姿しばしとどめむ     僧正遍照
17 ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは   在原業平朝臣
22 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ    文屋康秀

(大伴黒主)

https://www.rakuten.ne.jp/gold/ogurasansou/karuta/210.html

六歌仙のうちひとりだけ百人一首に選ばれなかった大友(大伴とも)黒主(おおとものくろぬし)という人物。
平安時代の歌人だったことはわかっていますが、大友皇子(おおとものみこ)の末裔という説があるいっぽうで大友村主(すぐり)黒主という役人と同一人物だろうともいわれ、
いまだにその正体は突き止められていません。
村主は大陸からの渡来人を管轄する者に与えられた姓(かばね)です。大友氏は近江国の滋賀郡大友郷に本拠地を置く氏族だったとか。
『古今和歌集』を見ると、その長(おさ)らしき黒主が、醍醐(だいご)天皇に近江の風俗歌(ふぞくうた=民謡)を献上しています。平安時代の貴族は諸国に民謡を提出させ、宮廷などで遊宴歌謡として愛唱していました。
あふみのや鏡の山をたてたれば かねてぞ見ゆる君が千歳は(古今和歌集 神遊 大伴くろぬし)
近江の鏡山には鏡が立ててありますからあらかじめ見えるのです あなたの千年の長寿が神前で歌い踊る神遊びの歌に分類されており、醍醐天皇の大嘗会(だいじょうえ)のために献上されています。大嘗会(大嘗祭とも)は天皇が即位後初めて行う新嘗祭(にいなめさい)のことです。
ところが『続後拾遺和歌集』に大伴黒主の名で載る歌は伊勢の風俗歌と詞書にあり、醍醐天皇の祖父、光孝天皇(十五)の大嘗会に献上されています。近江でなく伊勢の歌だというのが不思議です。
伊勢の海のなぎさを清みすむ鶴の 千とせの声を君にきかせむ(続後拾遺和歌集 賀 大伴黒主)
伊勢の海の渚は清らかなので鶴が通ってきています。その千歳の声(=長寿を祈る声)をあなたにお聞かせいたしましょう。どちらの歌も内容は長寿を祈る賀歌(がのうた)です。
こういうめでたい歌詞の民謡が各地にあったのでしょう。

風俗歌ではない、通常の歌も伝わっています。唐崎(からさき=琵琶湖西岸の地名)の浜である貴人が禊(みそぎ)をしていました。黒主はその貴人の案内や警固をしていたようなのですが、みるという名前の侍女に一目惚れしてしまいました。冗談を言ったりして戯れているうちに禊が終わり、貴人の一行は帰っていくことに。名残を惜しんだ黒主はみるに歌を贈りました。
なにせむにへたのみるめを思ひけむ 沖つ玉藻をかづく身にして(後撰和歌集 雑 くろぬし)
何のために渚の海松布(みるめ)に恋したのだろう。(わたしは)沖の藻を潜って採るような身分なのに、「へた」は「端」で波打ち際のこと。「海松布(みるめ)」は海藻の名前で、
「見る」と女性の名の「みる」に掛けています。この歌の黒主は近江の黒主にまちがいなさそうです。
研究者でも確信がもてないというのが実情のようですが、平安時代中期には黒主は近江に実在した人物と信じられていました。鎌倉時代の鴨長明は「志賀の郡(しがのこおり)」に黒主の明神が祀られており、昔の黒主が神になったものだと記しています。(無名抄)
これは大津市にある黒主神社のこと。伝説的歌人を祀ったものでは、ほかに蝉丸神社や猿丸神社もあります。実在が不確かな人物でも時を経れば神になり得るので、黒主もその例のひとつなのでしょう。

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

「百人一首」の周辺(その二) [百人一首]

その二 六歌仙(喜多川歌麿筆)

歌麿・六歌仙.jpg

喜多川歌麿筆「六歌仙」
http://lcweb2.loc.gov/service/pnp/jpd/02100/02188v.jpg

(周辺メモ)

右から「時計回り」順に、僧正遍昭 (そうじょうへんじょう・816-890年・歌番号12→大伴黒主 (おおとものくろぬし・生没年不明)→文屋康秀 (ぶんやのやすひで・生没年不明・歌番号22)→)喜撰法師 (きせんほうし・生没年不明・歌番号8)→在原業平 (ありひらのなりひら・825-880年・歌番号17)→小野小町 (おののこまち・生没年不明・歌番号9)

康秀と小町.jpg

喜多川歌麿筆「六歌仙」(康秀と小町)
https://ukiyo-e.org/image/japancoll/p9000-utamaro-two-poets-3541

遍照と小町.jpg

喜多川歌麿筆「六歌仙」(遍昭と小町)
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/45009

https://musbic.net/2018-05-17/7004

岩の上に 旅寝をすれば いと寒し 苔の衣を 我に貸さなん(小野小町)
世をそむく 苔の衣は たゞ一重 貸さねば疎し いざ二人寝ん(僧正遍昭)

高貴なお生まれにも拘らず、若くして出家なさったイケメン僧正遍昭(へんじょう)と、謎の美女・小野小町。平安時代のビッグカップル、噂のお二人の真相はどうだったのでしょう?
お二人の関係を知る手がかりが『大和物語』にありました!
『大和物語』に登場する僧正遍昭と小野小町の物語は、『後撰和歌集』に残されている、お二人の問答歌がベースになっています。遂行されずに終わった「百夜通い」から数年、僧正遍昭が出家した後のお話です。


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。