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「百人一首」の周辺(その一) [百人一首]

その一 六歌仙(土佐光起)

光起・六歌仙.jpg

土佐光起筆「六歌仙」 江戸時代・17世紀 絹本着色 100.3×49.6 1幅 東京国立博物館蔵 文化遺産オンライン

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/257215

六歌仙

https://hyakunin.stardust31.com/rokukasen.html

「六歌仙(ろっかせん)」とは、古今和歌集の仮名序において紀貫之が挙げた六人の歌人のことで、そこには「近き世にその名聞こえたる人」として紹介されています。
 その六歌仙とは

僧正遍昭 (そうじょうへんじょう・816-890年・歌番号12)
在原業平 (ありひらのなりひら・825-880年・歌番号17)
文屋康秀 (ぶんやのやすひで・生没年不明・歌番号22)
喜撰法師 (きせんほうし・生没年不明・歌番号8)
小野小町 (おののこまち・生没年不明・歌番号9)
大伴黒主 (おおとものくろぬし・生没年不明)
( *歌番号は百人一首の歌番号です)

の六人ですが、紀貫之自身はこの六人を「六歌仙」とは呼んでいません。
 「歌仙」とは、もともと仮名序で柿本人麻呂と山部赤人の二人に限って使われていて、「六歌仙」という名称は後世になってからの名称です。
 紀貫之はこれら六人の歌人を選んだ理由として、身分の高い公卿を除いて、当時においてすでに歌人として名が知られている人たちを選んだとしています。
 ですから、六歌仙の中には女性や僧侶も含まれていますが、歌人としても様々で、各人の歌風に共通性などがある訳でもありません。
 また、身分の高い人たちを対象にしなかったことについては、「官位高き人をば、容易きようなれば入れず」として、敢えて評価をしなかったようです。
 ところで、六歌仙についての仮名序における紀貫之の評価は、決して芳しいものでないのですが、これは柿本人麻呂と山部赤人の歌仙を念頭に置いたもので、この二人には遠く及ばないとしているようです。
 しかし、これら六歌仙以外の人たちの評価は更に厳しく、「歌とのみ思ひて、その様知らぬなるべし」として、全く取り上げようともしていないので、逆説的な言い方ですが、六歌仙について評価をしていると言えます。
 参考に、下に「古今和歌集・仮名序」において六歌仙について書かれている部分を紹介しておきますが、いずれにしても、これら六歌仙と呼ばれる人たちの和歌は素晴らしく、百人一首などによっても、身近に親しまれているのではないでしょうか。

「古今和歌集・仮名序」
ここに、古のことをも、歌の心をも知れる人、僅かにひとりふたり也き。然あれど、これかれ、得たる所、得ぬ所、互いになんある。
彼の御時よりこの方、年は百年あまり、世は十継になんなりにける。古の事をも歌をも、知れる人よむ人、多からず。今この事を言うに、官位高き人をば、容易きようなれば入れず。

その他に、近き世にその名聞こえたる人は、すなわち、僧正遍照は、歌のさまは得たれども、誠すくなし。例えば、絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。

在原業平は、その心余りて言葉足らず。萎める花の、色無くて臭い残れるがごとし。

文屋康秀は、言葉は巧みにて、そのさま身におわず。言わば、商人のよき衣きたらんがごとし。

宇治山の僧喜撰は、言葉かすかにして、初め終りたしかならず。言わば、秋の月を見るに、暁の雲にあえるがごとし。

小野小町は、古の衣通姫の流なり。哀れなるようにて、強からず。言わば、良き女の悩める所あるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。

大伴黒主は、そのさまいやし。言わば、薪負える山人の、花のかげに休めるがごとし。

この他の人々、その名聞こゆる、野辺に生うる葛の、這ひ広ごり、林に繁き木の葉の如くに多かれど、歌とのみ思ひて、その様知らぬなるべし。
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フーリア美術館逍遥 [フーリア美術館]

フーリア美術館逍遥(その一)


FS-6750_03[2].jpg

The fisherman Hakuryo and Mount Fuji
Type
Hanging scroll
Maker(s)
Artist: Hishikawa Sōri 菱川宗理
Historical period(s)
Edo period, 1770-1820
Medium
Color on paper
Dimension(s)
H x W (image): 86.3 × 28.1 cm (34 × 11 1/16 in)
Geography
Japan
Credit Line
Gift of Charles Lang Freer
Collection
Freer Gallery of Art
Accession Number
F1900.58
Label
Sori's range of subjects, like Hokusai's, was broader than most artists of ukiyo-e. His work included classical literary subjects, such as Six Immortal Poets, and sympathetic renderings of humble peasants, like this fisherman posed in strict profile with the sacred Mount Fuji silhouetted in the background. The colored feather cloak worn by the fisherman alludes to a Japanese legend about the fisherman Hakuryo, who encounters a beautiful spirit near Mount Fuji. Startled by his humble appearance, she flees, leaving behind her feathered cloak (hagoromo). The story became the subject of a famous Noh play.
Provenance
Former owner
Bunshichi Kobayashi 小林文七 (C.L. Freer source) (circa 1861 - 1923)
Edward S. Hull Jr.
Charles Lang Freer (1854-1919)
On View Location
Currently not on view
Classification(s)
Painting
Keyword(s)
Edo period (1615 - 1868), fisherman, Japan, kakemono, ukiyo-e
Collection(s) Area
Japanese Art
Web Resource(s)
Google Cultural Institute


Rights Statement
Copyright with museum
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習静堂の艶(やさ)隠者(光琳と乾山) [光琳と乾山]

その二十六の二 乾山の「四季花鳥図屏風」(その二)

㈢ そして、乾山については、「習静堂の艶(やさ)隠者」(『小林太市郎著作集六・日本芸術論Ⅱ・光琳と乾山』所収)との指摘もなされている。

艶隠者.jpg

『扶桑近代艶(やさ)隠者(第三巻)』(西鷺軒橋泉 [作] ; 西鶴 [序・画])所収「嵯峨の風流男(やさおとこ)」

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he13/he13_03265/he13_03265_0003/he13_03265_0003.html

上記の西鶴の「嵯峨の風流男(やさおとこ)」は、乾山をモデルにしていて、若くして隠遁者(隠者)として、俗世間との縁を断ち切る生活に入るが、それは、一見、「ストイック」(禁欲的に自己を律する姿勢)的に見られるが、その本質は、それに甘んじている、一種の「エピキュリアン」(享楽主義者)的な面が濃厚であるというのである。
 それを図解した挿絵が、上記のもので、左側の女性に囲まれて遊興三昧の男が、光琳をモデルした男、それを見ていて、その中には足を踏み入れない右側の人物が乾山をモデルにしている「嵯峨の風流男(やさおとこ)」、すなわち、「艶(やさ)隠者」乾山、その人という見方である。

㈣ しかし、これは、『小林太市郎著作集六・日本芸術論Ⅱ・光琳と乾山』での、一つの問題提示的な見方であって、冒頭の「四季花鳥図屏風」は、その「霊海」(乾山の禅号)などからして、「艶(やさ)隠者」という世界のものではなく、「黄檗宗の修業僧・(霊海)乾山」の世界のものということについては、下記のアドレスなどで触れて来た。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-13

㈤ さらに、乾山の最期についての、今に、「乾山一世・尾形乾山」、そして、「光琳二世・尾形乾山」の名をとどめているのに比して、全くの、下記のアドレスで紹介した、「乾山の縁故者は皆無であった」ということは、壮絶な、「黄檗宗の修業僧・(霊海)乾山」の最期であったことは、特記をして置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-16

(再掲)
 乾山の最期については、いずれの年譜関係も、「寛保三年(一七四三)六月二日、乾山没(享年八十一)」程度で、詳しいことは分からない。これらの年譜の基になっているのは、次の寛永寺の坊官日記の「上野奥御用人中寛保度御日記」(寛保三年六月二日の項)に因っている。
【 乾山深省事先頃より相煩ひ候処 養生相叶はず今朝(六月二日)死亡の旨 進藤周防守方へ兼而心安く致候に付 深省懇意の医師罷越物語申候 無縁の者にて 取仕廻等の儀仕遣はし候者もこれ無く 深省まかり在候 地主次郎兵衛と申者世話致し遣はし候得共 軽きものにつき難儀いたし候由 就而者何卒取仕廻まかりなり候程の 御了簡なされ遣され下され候様に仕つり度由 周防守より左衛門へ申聞候に付 坊官中迄申入候処 何れも相談これあり 御先代御不便にも思召候者の儀不便の事にも候間 仕廻ひ入用金一両下され然るべく候無縁の者の儀に候間 幸ひ周防守世話これあり候につき 周防守より次郎兵衛へ右之段申聞く 尤も吃度御上より下され候とこれ無く、役人中了簡をもつて下され候間 相応に取仕廻ひ遣はし候様に申聞様 周防守へ坊官中申聞られ 金子相渡し 深省事当地に寺もこれ無く候につき 坂本善養寺へ相頼み葬り候由 無縁の者の儀不便の事に候間 右の趣き善養寺へ申談じ 過去帳に記置 同忘年忌回向致し遣はし候様申聞 金一両相渡し是にて右回向これ有る様に取計ひ遺し候様申達し、然るべく旨何れも申談じ 当善養寺は左衛門懇意につきも同人方より申遣し然べく旨申入置候  】
(『乾山 都わすれの記(住友慎一著)』・『尾形乾山第三巻研究研究編(リチャード・ウィルソン、小笠原左江子著)』)
(注など)
1 進藤周防守は、輪王寺宮の側近で、乾山とは知己の間柄のように解せられる。しかし、
乾山がお相手役を仰せつかっていた、輪王寺宮・公寛親王は、元文三年(一七三八)に四十三歳亡くなっており、乾山が没した寛保三年(一七四三)の頃には、輪王寺との関係は疎遠になっていたのであろう。
2 光琳・乾山の江戸での支援者であった深川の材木商・冬木家の当主・冬木都高も、公寛親王と同じ年(元文三年)に亡くなっており、冬木家との関係も、これまた疎遠になっていたのであろう。
3 上記の「深省懇意の医師」というのは、光琳三世を継ぐ「立林何帛」(前加賀藩医官・白井宗謙)のようにも思われるが、その医師が「何帛」としても、乾山の葬儀を取り仕切るような関係でなかったようにも思われる(何帛が乾山より「光琳模写宗達の扇面図」を贈られたのも元文三年で、乾山が没する頃は、やはり交誼は希薄になっていたのかも知れない)。
4 冬木家の関係で交遊関係が出来た、筑島屋(坂本米舟)や俳人・長谷川馬光との関係も、元文二年(一七三七)二月から翌年の三月までの一年有余の、佐野の長逗留などで、やはり、乾山が没する頃は、その交遊関係の密度は以前よりは希薄になっていたのかも知れない。
5 その上で、上記の晩年の乾山を看取った「地主次郎兵衛」というのは、寛永寺近くの、乾山の入谷窯のあった、その「地主・次郎兵衛」で、乾山亡き後、江戸の「二代・乾山」を襲名することとなる、その人と解したい。そして、この「次郎兵衛」は、乾山の佐野逗留時代の鋳物奉行・大川顕道(号・川声)などと交誼のある、天明鋳物型造り師の「次郎兵衛」その人なのかも知れない(『乾山 都わすれの記(住友慎一著)』)。
6 いずれにしろ、乾山が、寛保三年(一七四三)、六月二日(光琳の命日)に、その八十一年の生涯を閉じた時には、その六十九年の生涯を送った「京都時代」、そして、それ以降の、「光琳二世・絵師且つ乾山一世・陶工、尾形深省(乾山)」十二年の「江戸・佐野時代」を通して、その最期を看取ったものは、上記の、寛永寺の坊官日記の「上野奥御用人中寛保度御日記」の通り、乾山の縁故者は皆無で、乾山が開窯した「入谷窯」(「地主次郎兵衛」他)関係者などのみの寂しいものであったのであろう。

㈥ さらに、この、冒頭の「四季花鳥図屏風」の題名は、『小林太市郎著作集六・日本芸術論Ⅱ・光琳と乾山』での「楓柳芦屏風」の方が、より主題がはっきりしている。その理由は、ここに出て来る「鳥」は、「白鷺」のみで、その「草花」も、「春」から「秋」にかけての、「夏」の草花が主題という趣きで、「四季花鳥図」という題名はそぐわない面もある。
 まず「右隻」の「柳」(春)の下には、「菖蒲」(五月)、そして、「沢瀉・芙蓉」(六・七月)、「末摘花」(六月)、そして、「左隻」に行き、「花桔梗・うきぐさ・真菰・萩・すすき」(七月)、紅葉(八・九月)で、いわゆる「琳派」が画題とする「四季(「春・夏・秋・冬」または「一月~十二月」)花鳥図」とは趣を異にしているのである。

㈦ その上で、「右隻」の「柳」(春)に対する「左隻」の紅葉する「楓」周辺の白鷺は、もう既に鬼籍に入っている、乾山の「父・母」、そして、「二人の兄(長男と次男・光琳)」と「四人の妹」たちと解することも可能であろう。そして、この紅葉する楓は、死期を悟った乾山その人ということになろう。そして、この六曲一双の「十二画面(扇)」の「絵巻物」と解すると、この「紅葉する楓」の、最終章(「左隻」の「第六扇(面)」)の「芦」は、雪を被った枯れ芦の光景のようで、それは、下記のアドレスに出て来る「たち残す 錦いくむら 秋萩の 花におくある 宮きのゝ原」(三条西実隆)の、その「宮城野ゝ原」ということになろう。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-16

(再掲)

この「花におくある」というのは、咲き始める「春の花」でなく、咲き終わる「秋の花(秋の花野)」の、その「花のおく(奥)ある)」、「花野の、その先に」、それが、上記の、生まれ故郷の京の都から遠く離れた東国の「宮きのゝ原」(宮城野原)、そして、その「奥」は、すなわち、「黄泉(よみ)の国」という暗示なのであろう。

㈧ このように解してくると、この「左隻」の「第一扇(面)~第三扇(面)」の「蛇籠」 周辺の光景は、下記のアドレスで紹介した、「武蔵野隅田川図乱箱」の、その「武蔵野」と「隅田川」の光景となって来る。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-02

(再掲)

【 箱の内側には桐材の素地に直接「蛇籠に千鳥図」を描き、裏面に「薄図」を描いている。「薄図」に「華洛紫翠深省八十一歳画」という落款があるので、乾山が没する寛保三年(一七四三)の作とわかる。図様にいずれも宗達が金銀泥下絵で試みて以来この流派の愛好した意匠だが、乾山はそれを様式化した線で図案風に描いた。図案風といっても、墨と金泥と緑青の入り乱れた薄の葉の間に、白と赤の尾花が散見する「薄図」は、老乾山の堂々とした落款をことほぐとともに、来世を待つ老乾山の夢を象徴して美しく寂しく揺れている。乾山の霊魂は「蛇籠に千鳥図」の千鳥のように、現世の荒波から身をさけて、はるか彼岸へ飛んでゆくのであろう。この図はそのような想像を抱かせるだけのものをもっている。 】(『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説117・118」) 

㈨ そして、この「武蔵野隅田川図乱箱」の「蛇籠」に続く、「左隻」の「紅葉する楓」(乾山)は、乾山の最期の地の、「乾山深省事先頃より相煩ひ候処 養生相叶はず今朝(六月二日)死亡の旨 進藤周防守方へ兼而心安く致候に付 深省懇意の医師罷越物語申候 無縁の者にて」(「上野奥御用人中寛保度御日記」)の、その上野寛永寺付近の入谷窯周辺の光景と解したいのである。その「無縁の者」のままに亡くなった乾山のもとに、京都の一代の栄光を浴した「雁金屋」の、皆、黄泉の国にいる同胞が、その黄泉の国へと誘うように解したいのである。

㈩ 最後に、光琳の百回忌を営み、光琳展図録ともいうべき『光琳百図』を刊行し、続いて、『乾山遺墨』をも刊行した、「江戸琳派」の創設者の酒井抱一の、その『乾山遺墨』の「跋文」を掲載して置きたい。

 余緒方流の画を学ふ事久しと雖更其
 意を得す光琳乾山一双の名家にして
 世に知る處なりある年洛の妙顕寺 
 中本行院に光琳の墓有るを聞其跡
 を尋るに墓石倒虧(キ)予いさゝか作をこし
 て題字をなし其しるし迄に建其
 頃乾山の墓碑をも尋るに其處を知
 ものなし年を重京師の人に問と雖
 さらにしらす此年十月不計して古筆
 了伴か茶席に招れて其話を聞く
 深省か墳墓予棲草菴のかたわら叡麓
 の善養寺に有とゆふ日を侍すして行見
 にそのことの如し塵を拂水をそゝき香
 花をなし禮拝して草菴に帰その
 遺墨を写しし置るを文庫のうちより
 撰出して一小冊となし緒方流の餘光
 をあらはし追福の心をなさんとす干時
 文政六年発未十月乾山歳八十一没
 てより此年又八十有一年なるも
 又奇なり
    於叡麓雨華葊抱一採筆
(『乾山 琳派からモダンまで(求龍堂刊)』所収「乾山と琳派―抱一が『乾山遺墨』に込めるもの―(岡野智子稿)」)

江戸博本『乾山遺墨』跋文翻刻

翻刻は『酒井抱一 江戸情緒の精華』(大和文華館 二〇一四)所収の宮崎もも氏翻刻(国立国会図書館本)を参照しつつ行った。

広重の世界(五) [広重]

(その五)広重のスケッチ集(駿河三保之松原)

三保の松原.jpg

Album: Miscellaneous Sketches → 駿河 三保(三保之松原)
Maker(s) Artist: Utagawa Hiroshige 歌川広重 (1797-1858)
Historical period(s) Edo period, Mid-eighteenth century
School Ukiyo-e School
Medium Ink and color on paper → 紙本着色
Dimensions H x W x D (overall, album closed): 27.8 x 16.8 x 3.8 cm (10 15/16 x 6 5/8 x 1 1/2 in)

(参考)

三保の松原一.jpg

冨士三十六景「駿河三保之松原(するがみほのまつばら)」(山梨県立博物館蔵)

www.museum.pref.yamanashi.jp/4th_fujisan/03fuji/4th_fujisan_03fuji_24.htm

歌枕でもある景勝地三保の松原を雅やかな風情で描いている。三保の松原は古くから、左手の高台に清見寺、左奥に富士、右から松原の先端が伸びてくる構図で多く描かれたが、広重はさらに松原に近づき、ひときわ富士を大きくとらえている。縦長の画面に中景から遠景を重ねた俯瞰構図で、奥行きと広がりを出している。
※三保松原(静岡県静岡市清水区)
駿河湾に突き出した砂州である三保松原(三保浦)には羽衣伝説が伝わり、古代から歌枕として詠まれ、富士の景勝地として有名であった。対岸には清水湊があるため、船の出入りが描かれている。その背後の山は薩■(土へんに垂)山。

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広重の世界(四) [広重]

(その四)広重のスケッチ集(下総堀江猫実)

堀江猫実.jpg

Album: Miscellaneous Sketches → 下総 堀江猫実(ねこざね)
Maker(s) Artist: Utagawa Hiroshige 歌川広重 (1797-1858)
Historical period(s) Edo period, Mid-eighteenth century
School Ukiyo-e School
Medium Ink and color on paper → 紙本着色
Dimensions H x W x D (overall, album closed): 27.8 x 16.8 x 3.8 cm (10 15/16 x 6 5/8 x 1 1/2 in)

(メモ)

堀江猫実二.jpg

歌川広重(初代)歌川広重(うたがわひろしげ) 安政3年(1856)/縦36cm×横25cm
船橋市図書館蔵 → 名所江戸百景 堀江ねこざね

https://www.lib.city.funabashi.chiba.jp/fukeiga8.html

下総最西端の堀江・猫実(浦安市)の海辺の情景。中央の川は境川、右側林の中に見えるのは猫実の神明社(現豊受神社)。砂浜の鳥は大膳(だいぜん)という千鳥の一種。それを千鳥無双網と称する網で捕ろうとしている。堀江・猫実は太日川(後に利根川~江戸川と改称)の三角州に成立した集落で、昭和中期までは漁業を主とし、一部で水田農業等も行うという、デルタに続く地域であった。この周辺の風景が一変するのは、昭和44年の東西線の開通後で、現在では画の面影は全くない。


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広重の世界(三) [広重]

(その三)広重のスケッチ集(隅田川之渡)

筑波一.jpg

Album: Miscellaneous Sketches → 隅田川之渡(フリーア美術館蔵
Type Album  → 画譜(スケッチ集)
Maker(s) Artist: Utagawa Hiroshige 歌川広重 (1797-1858)
Historical period(s) Edo period, Mid-eighteenth century
School Ukiyo-e School
Medium Ink and color on paper → 紙本着色
Dimension(s) H x W x D (overall, album closed): 27.8 x 16.8 x 3.8 cm (10 15/16 x 6 5/8 x 1 1/2 in)

筑波二.jpg

広重「名所江戸百景 隅田川水神の森真崎」 (国立国会図書館蔵)

http://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail323.html?keywords=mount-tsukuba

筑波三.jpg

広重「名所江戸百景 墨田河橋場の渡かわら竈」(国立国会図書館蔵)

http://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail302.html?keywords=mount-tsukuba

(メモ)

一 水神の渡し (遠くに「筑波山」が見える)
現在の水神大橋の100 mほど下流にあった真崎稲荷と隅田川神社を結んでいた渡しで、名は隅田川神社が水神を祀っていることによるが、付近の俗称が「水神」でもあったことにもよる。歌川広重が錦絵「隅田川水神の森眞崎」に渡しを描いている。
橋場の渡し

二 橋場の渡し (遠くに「筑波山」が見える)
現在の白鬚橋付近にあった。「白鬚の渡し」とも呼ばれた。歴史的に位置や名称に変遷があったが、記録に残る隅田川の渡しとしては最も古い。律令時代の承和2年(835年)の太政官符に「住田の渡し」[3]と書かれたものが残っている。奥州、総州への古道があり、伊勢物語で主人公が渡ったのもこの渡しとされている。また、源頼朝が挙兵してこの地に入る際に、歴史上隅田川に最初に架橋した「船橋」もこの場所とされ、「橋場」という名が残ったとも伝えられている。橋場は歴史の古い土地柄から江戸時代から風流な場所とされ、大名や豪商の別荘が隅田川河岸に並び、有名な料亭も多かった。明治期に入ってからも屋敷が建ち並んでおり、とりわけ著名な三条実美の別荘である「對鴎荘」が橋場の渡しの西岸にあった。
歌川広重が錦絵「墨田河橋場の渡かわら竈」に描いた。白鬚橋の完成に伴い、大正期に廃止されたといわれる。

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広重の世界(二) [広重]

(その二)広重のスケッチ集(駿河冨士沼)

冨士沼一.jpg

Album: Miscellaneous Sketches → 駿河冨士沼(フリーア美術館蔵)
Type Album → 画譜(スケッチ集)
Maker(s) Artist: Utagawa Hiroshige 歌川広重 (1797-1858)
Historical period(s) Edo period, Mid-eighteenth century
School Ukiyo-e School
Medium Ink and color on paper → 紙本着色
Dimension(s) H x W x D (overall, album closed): 27.8 x 16.8 x 3.8 cm (10 15/16 x 6 5/8 x 1 1/2 in)

(参考)

冨士沼二.jpg

「駿河冨士沼(するがふじのぬま)」(「不二三十六景」・山梨県立美術館蔵)
富士沼(浮島沼)はそこから見る富士の大きさで知られるが、富士の絵の枠を突き破って山頂を描き、その巨大さを表している。富士沼を描くとき広重はこの方法をよく使い、『富士見百図』では、富士と沼とを俯瞰して、より写実的な描法を用いている。
※富士沼(静岡県沼津市)
 富士沼(浮島沼)は愛鷹(あしたか)山の南麓に広がる低湿地帯であり、古代・中世以来、海岸部の砂州上を通る東海道からの眺望により、景勝地となっていた。富士の麓には愛鷹山がそびえる。

広重の世界(一) [広重]

(その一)広重のスケッチ集(波濤図)

波.jpg

Album: Miscellaneous Sketches → 波濤図
Type Album          → 画譜(スケッチ集)
Maker(s) Artist: Utagawa Hiroshige 歌川広重 (1797-1858)
Historical period(s) Edo period, Mid-eighteenth century
School Ukiyo-e School
Medium Ink and color on paper → 紙本着色
Dimension(s) H x W x D (overall, album closed): 27.8 x 16.8 x 3.8 cm (10 15/16 x 6 5/8 x 1 1/2 in)

(メモ)

歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)は、江戸時代の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった[1]。かつては安藤広重(あんどう ひろしげ)とも呼ばれたが、安藤は本姓、広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない[2]。ゴッホやモネなどの画家に影響を与え、世界的に著名な画家である。
広重は、江戸の八代洲河岸(やよすがし)定火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として誕生。源右衛門は元々田中家の人間で、安藤家の養子に入って妻を迎えた。長女と次女、さらに長男広重、広重の下に三女がいた。広重は幼名を徳太郎、のち重右衛門、鉄蔵また徳兵衛とも称した。文化6年(1809年)2月、母を亡くし同月父が隠居し、数え13歳で広重が火消同心職を継ぐ。同年12月に父も死去。
幼い頃からの絵心が勝り、文化8年(1811年)15歳の頃、初代歌川豊国の門に入ろうとした。しかし、門生満員でことわられ、歌川豊広(1774年-1829年)に入門。翌年(1812年)に師と自分から一文字ずつとって歌川広重の名を与えられ、文政元年(1818年)に一遊斎の号を使用してデビュー。
文政4年(1821年)に、同じ火消同心の岡部弥左衛門の娘と結婚した。 文政6年(1823年)には、養祖父(安藤家)方の嫡子仲次郎に家督を譲り、自身は鉄蔵と改名しその後見となったが、まだ仲次郎が8歳だったので引き続き火消同心職の代番を勤めた。
始めは役者絵から出発し、やがて美人画に手をそめたが、文政11年(1828年)師の豊廣没後は風景画を主に制作した。天保元年(1830年)一遊斎から一幽斎廣重と改め、花鳥図を描くようになる。
天保3年 (1832年)、仲次郎が17歳で元服したので正式に同心職を譲り、絵師に専心することとなった。一立齋(いちりゅうさい)と号を改めた。また立斎とも号した。入門から20年、師は豊廣だけであったが、この頃大岡雲峰に就いて南画を修めている[3]。
この年、公用で東海道を上り、絵を描いたとされるが、現在では疑問視されている。翌年から「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声は決定的なものとなった。以降、種々の「東海道」シリーズを発表したが、各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けており、ともに秀作をみた。また、短冊版の花鳥画においてもすぐれた作品を出し続け、そのほか歴史画・張交絵・戯画・玩具絵や春画、晩年には美人画3枚続も手掛けている。さらに、肉筆画・摺物・団扇絵・双六・絵封筒ほか絵本・合巻や狂歌本などの挿絵も残している。そうした諸々も合わせると総数で2万点にも及ぶと言われている。
安政5年没。享年62。死因はコレラだったと伝えられる。墓所は足立区伊興町の東岳寺。法名は顕功院徳翁立斎居士。友人歌川豊国(三代目)の筆になる「死絵」(=追悼ポートレートのようなもの。本項の画像参照)に辞世の歌が遺る。
東路へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん

https://ja.wikipedia.org/wiki/歌川広重

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北斎(その三十) [北斎]

(その三十)Zhong Kui (Shoki) killing a demon(鍾馗の鬼退治) フリーア美術館蔵(「オープンF|S」)

鍾馗.jpg

Zhong Kui (Shoki) killing a demon
Type Hanging scroll (mounted on panel)
Maker(s) Artist: Attributed to Katsushika Hokusai 葛飾北斎 (1760 - 1849)
Historical period(s) Edo period, 1760-1868
Medium Color on silk panel
Dimension(s) H x W: 85 x 42.3 cm (33 7/16 x 16 5/8 in)

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北斎(その二十九) [北斎]

(その二十九)「賀奈川沖本杢之図(かながわおきほんもくのず)」

賀奈川沖本杢之図.jpg

北斎「賀奈川沖本杢之図」(横間判錦絵 二三・三×三五・三cm) 墨田区

「おしをくりはとうつうせんのづ」と共に、後年の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」に繋がる作品。波には「板ぼかし」の技法で陰影が施され、立体的表現が試みられている。

「ぼかしとは浮世絵版画における摺りの技法の一種である。
空、海、山、川などの部分に濃淡をつけて空間や塊を表現するもので、文化頃から板ぼかしが使用されるようになり、天保初期から拭きぼかてなし、当てなしぼかしなどが多く用いられるようになった。
板ぼかしとは、ぼかす部分の版木を木賊、椋の葉を使用して磨いて版面に傾斜をつけて摺るとガサッとした独特のぼかし効果が得られる。うねるような土坡の表現に用いられる。歌川国虎の錦絵『近江八景 三井晩鐘』の土坡がよく知られる。
拭きぼかしとは、ぼかしたい部分の版木をぬれ雑巾で拭いて、その上を刷毛を使用して絵具をはいて摺ると水分に絵具が広がって紙にぼかしの表現ができる。水平で真っ直ぐなぼかしを「一文字ぼかし」といい、画面の最上部の一文字ぼかしを「天ぼかし」という。
当てなしぼかしとは、ぼかす部分の版木に水を垂らし、そこに絵具を含ませて摺ると、当てがなく偶然の形に滲んでぼかしが生じる。歌川広重の『名所江戸百景』におけるむら雲などの表現に使用されている。」(wiki)
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