SSブログ

北斎(その二十一) [北斎]

(その二十一)Mount Fuji and Enoshima (富士と江の島図)フリーア美術館蔵(「オープンF|S」)

冨士と江の島図.jpg

Mount Fuji and Enoshima → 富士と江の島図 → 海浜冨士遠望図
Type Screens (two-panel) → 二曲一双 
Maker(s) Artist: Katsushika Hokusai 葛飾北斎 (1760 - 1849) → 印章「葛しか」
Historical period(s) Edo period, ca. 1825-1831
School Ukiyo-e School
Medium Iink and color on paper → 紙本着色
Dimension(s) H x W (overall, each panel): 187.1 x 90.7 cm (73 11/16 x 35 11/16 in)
【落款は「葛飾北斎為一画」。今は屏風だが、紙面に引手の跡があるため、もとは襖絵であったと考えられる。近景には波が打ち寄せる七里ガ浜が広がり、遠景には向かって左から江の島・烏帽子岩・富士山が見える。 】
(『別冊太陽 北斎 生誕二五〇年記念 決定版』所収「作品解説(高杉志緒稿)」)
 ↑
為一時代(六十一歳の頃から七十四歳頃まで) → この時代にシーボルト事件が起きた。
北斎とシーボルトとは、若干の交流があった。北斎の作品が、ライデン国立民族博物館(オランダ)にあり、それらは、シーボルトの寄贈品といわれている。上記の作品も、ライデン国立民族博物館の作品と類似している。
 ↓
1820(文政3)61歳
「為一」落款の作品が見えはじめる。▽肉筆画「白拍子」(北斎戴斗改為一筆 印=葛し可)この頃か。亀戸天満宮で「鷽替」の神事が始めらる。北尾重政没(享年82)。
1821(文政4)62歳
北斎の女子(四女阿猶か)没する(11月13日)。伊能忠敬「大日本沿海実測図」。
1822(文政5)63歳
本年、長女阿美代と門人・柳川重信が離縁するという 。▽料埋本「江戸流行料理通」2編(八百屋善四郎著 北斎改為一筆)。式亭三馬没(享年47)。
1823(文政6)64歳   → シーボルト、出島のオランダ商館医として着任
この頃から川柳の号に卍を用いる。▽絵手本「今様櫛きん雛形」(前北斎為一先生画図)。
須原屋版「江戸切絵図」。大田南畝(幕臣・大田覃)没(享年75)。
1824(文政7)65歳   →  シーボルト、鳴滝塾を開く  
▽絵手本「新形小紋帳」(前ほくさゐ為一筆)。鍬形蕙斎没(享年64)。
1825(文政8)66歳
選句集「俳諷柳多留」85編に序文を寄せる。初代・歌川豊国没(享年57)。
1826(文政9)67歳。▽考証本「還魂紙料」(柳亭種彦作 為一模ほか)。
1827(文政10)68歳
この頃、中風を患うが自家製の薬で回復するという 。▽肉筆画「歌占図」(文政十丁亥年正月二日筆始 北斎為一敬画)。小林一茶没(享年65)。
1828(文政11)69歳   → シーボルト事件(国禁の地図を持ちだす)
後妻こと女が没する(6月5日)。▽絵手本「光悦正風 盆画独稽古」(月花永女著 為一筆)。
酒井抱一没(姫路藩主忠以の弟)(享年68)。
1829(文政12)70歳
この頃、孫(柳川重信の子)の放蕩に苦しむという。「偐紫田舎源氏」初編(柳亭種彦作、歌川国貞画)。
1830(天保元)71歳
放蕩の孫を高崎から奥州へ連れて行かせるという。宿屋飯盛没(享年78)。
1831(天保2)72歳
▽横大判「富嶽三十六景」全46枚(前北斎為一筆ほか)この頃か。寺門静軒「江戸繁昌記」。
1832(天保3)73歳
▽横大判「琉球八景」全8枚(前北斎為一筆)この頃か。十返舎一九没(享年67)。
1833(天保4)74歳
▽絵本「唐詩選画本 五言律」(高井蘭山著 前北斎為一画)。▽縦大判「諸国瀧廻り」全8枚(前北斎為一筆)。人情本「春色梅児誉美」初・二編(為永春水作)。この頃から「天保の大飢饉」始まる。

長崎商館長(カピタン)が江戸参府の際(1826年)、北斎に日本人男女の一生を描いた絵、2巻を150金で依頼した。そして随行の医師シーボルトも同じ2巻150金で依頼した。北斎は承諾し数日間で仕上げ彼らの旅館に納めに行った。商館長は契約通り150金を支払い受け取ったが、シーボルトの方は「商館長と違って薄給であり、同じようには謝礼できない。半値75金でどうか」と渋った。北斎は「なぜ最初に言わないのか。同じ絵でも彩色を変えて75金でも仕上げられた。」とすこし憤った。シーボルトは「それならば1巻を買う」というと、通常の絵師ならそれで納めるところだが、激貧にもかかわらず北斎は憤慨して2巻とも持ち帰ってきた。当時一緒に暮らしていた妻も、「丹精込めてお描きでしょうが、このモチーフの絵ではよそでは売れない。損とわかっても売らなければ、また貧苦を重ねるのは当たり前ではないか。」と諌めた。北斎はじっとしばらく黙っていたが「自分も困窮するのはわかっている。そうすれば自分の損失は軽くなるだろう。しかし外国人に日本人は人をみて値段を変えると思われることになる。」と答えた。
通訳官がこれを聞き、商館長に伝えたところ、恥じ入ってただちに追加の150金を支払い、2巻を受け取った。この後長崎から年に数100枚の依頼があり、本国に輸出された。シーボルトは帰国する直前に国内情報を漏洩させたことが露見し、北斎にも追及が及びそうになった。(シーボルト事件)
オランダ国立民族学博物館のマティ・フォラーによると、1822年のオランダ商館長ブロムホフが、江戸参府の際日本文化の収集目的で北斎に発注し4年後受け取る予定としたが、自身の法規違反で帰国。後継の商館長ステューレルと商館医師シーボルトが1826年の参府で受け取った。現在確認できるのは、オランダ国立民族学博物館でシーボルトの収集品、フランス国立図書館にステューレルの死後寄贈された図だという。西洋の絵画をまねて陰影法を使っているが絵の具は日本製(シーボルトコレクションでは紙はオランダ製)である。

司馬江漢.jpg

司馬江漢「相州鎌倉七里浜図」油彩 九五・六×一七八・五cm 神戸市立博物館蔵

北斎の「富士と江の島図」(海浜冨士遠望図)は、この「相州鎌倉七里浜図」をモデルにしているか? また、北斎の娘で、北斎の片腕でもあった「葛飾応為(おうい)」の手も入っているか(?)


共通テーマ:アート

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。