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宮本武蔵と巨鯨 [歌川国芳]

その三 宮本武蔵と巨鯨

 この「宮本武蔵と巨鯨」は、別称、「宮本武蔵の鯨退治」などとも呼ばれている。右面の上部に、「宮本武蔵は庇護の産にして、後豊前に来つて奉仕す。また諸国をめぐりて剣術を修行す。ある時肥前の国の海上にて、大ひなる背美鯨をさしとふす。」との説明書きが施されている。
 葛飾北斎の「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」に、「巨鯨」と「宮本武蔵」を据えたか(?)
この「巨鯨」も、何かの、輸入ものの図鑑などを参考にした感じで無くもない(?)
中の画面の、腹の辺りの、二か所の青い飛沫を受けているようだが(?)、これは、完全に、海上に飛躍している「巨鯨」の図であろう(?)

宮本武蔵と巨鯨.jpg

宮本武蔵と巨鯨(みやもとむさしときょげい) 国芳作
大判三枚続
右 36.7cm×25.1cm
中 36.9cm×25.1cm
左 36.9cm×25.0cm
一勇斎国芳戯画/芳桐印
名主双印 米良・村田
弘化4年(1847)~嘉永三年(1850)
川口屋正蔵

www.maff.go.jp/j/pr/aff/1607/spe1_01.html



北斎・鯨.jpg

「千絵の海 五島鯨突」絵・前北斉為一筆(葛飾北斎)版元・森屋治兵衛 天保3~4年(1833)頃、横中判(29.3×19.0センチ錦絵、東京国立博物館蔵  
長崎県五島の魚目に伝わる漁法、慶長11年(1606)頃、熊野の鯨突き漁が伝わり行われた。小舟で鯨を追いかけ銛で突き弱らせながら浅瀬に追い込む。やや北斎の大胆さに欠ける。



http://www.photo-make.jp/hm_2/hokusai_chie.html



千絵の海シリーズは、つい最近までその残存数が極めて少ないために、数枚を出したとこで販売中止された。または版下・校合摺りの段階で中止されたというのが、ほぼ定説であった。ところが2011年1月10日、テレビNHK総合放送にて「パリ国立図書館写本部で画帳仕立ての『千絵の海10枚揃い』が発見された」。



なにやら、国芳の「宮本武蔵と巨鯨」は、この北斎の「千絵の海 五島鯨突」を背景にしたものという雰囲気が濃厚である。


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相馬の古内裏 [歌川国芳]

その二  相馬の古内裏

相馬の古内裏.jpg

相馬の古内裏(そうまのふるだいり)
大判錦絵3枚続 / 右37.1×25.5cm 中37.3×25.2cm 左37.2×24.1cm/天保(1830-44)
一勇斎国芳戯画/芳桐印
名主単印 渡

http://www.ccma-net.jp/collection_img/collection_02-15_kuniyoshi.html



歌川国芳(1797-1861)は、幕末期、国貞(三代豊国)、広重と実力・人気を三分した浮世絵師である。「武者絵の国芳」と呼ばれるほど武者絵を一新したが、そのほか狂画・戯画もよくし、天保期の風景画や、弘化・嘉永期の美人画も高く評価される。発想が豊かで次々に新機軸を打ち出し、幕末浮世絵会の活力源ともなっている。
本図は、山東京伝による読本『忠義伝』に取材した作品で、源頼信の家老大宅光国と平将門の遺児で妖術を操る滝夜叉姫との対決の場面である。活劇を見るような動きのあるシーンの描写と大胆な構図に国芳らしさのよく表れた人気の作品である。
解剖学的にもかなり正確であるとの指摘もある生々しい骸骨が御簾を破って大きく半身を乗り出す。読本の中では数百の骸骨が戦闘を繰り広げることになっているのを、あえて大きな骸骨の出現に代表させて鑑賞者の意表をついているのである。三枚続は、一図ずつでも構図が独立するように作画するのが通常であるが、その慣例をまったく意にとめない大胆さは国芳ならではといえるであろう。画面の全体を大きく用いた構図は、斬新であり迫力に満ちている。同様の三枚にわたって題材を大きく扱う構図法を取る作品では、「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」「宮本武蔵と巨鯨」「鬼若丸と大緋鯉」が本図と共に国芳の代表作として挙げられる。

(特機事項)
一 左の上部に、次のような説明書きがある。
「相馬の古内裏に、将門の姫君滝夜叉、妖術を以て味方を集むる。大宅(おおやの)太郎光圀妖怪を試さんと爰(ここに)来り、竟(つい)に之を亡ぼす。」

二 この骸骨は頗るリアルである。十八世紀から十九世紀にかけては、日本の近代的医学の幕開けの時代であった。人体解剖が行われたり、『解体新書』を始めとする輸入医学書の翻訳出版も見られた。それらの影響もあるのだろうか?


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