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狂画の鬼才「河鍋暁斎」(その十五) [河鍋暁斎]

(その十五)「風俗鳥獣画帖」(その八 平井保昌の沈勇)

平井保正.jpg

「風俗鳥獣画帖」(その八 平井保昌の沈勇)絹本着色 (各一九・一×一四・六cm)
『特別展覧会 没後一二〇年記念 絵画の冒険者 暁斎 近代へ架ける橋(京都国立博物館)』所収「作品解説9」

 この「平井保昌」については、下記のとおり。

http://www.kitaoka-jinja.or.jp/about_kitaoka/syousai1.html



藤原保昌は、天徳二年(958)~長元九年(1036)の人物とされ、摂津国平井に居住していたことから平井保昌とも称し、当時栄華を極めていた藤原道長の家司(けいし)として仕えていました。
 公家の出身でありながら武勇に秀でており、「尊卑分脈」(そんぴぶんみゃく)では、勇気があり武略に優れた人物であったと称え、「今昔物語集」にも「兵の家にて非ずと云えども心猛くして弓箭(武芸)の道に達せり」と記されており、道長四天王の一人として名声を博していました。
 その武勇を物語る話も伝わっております。有名なものに、源頼光を始め金太郎で知られる坂田金時らと共に大江山に棲む酒呑童子(しゅてんどうじ)という鬼を征伐した、という伝承があります。
 また、「今昔物語集」と「宇治拾遺物語」には袴垂(はかまだれ)との逸話が記されています。「袴垂と名乗る大盗賊の親分が朧(おぼろ)月夜の下、笛を奏でながらたった一人でゆっくりと歩く男を見つけた。袴垂は身ぐるみを奪おうと近づいたが、男は全く怯える様子もなく、逆にその堂々とした気迫に圧倒され何もできずに男の屋敷で着物を恵んでもらった」とあり、「この男の名は藤原保昌であった」という内容です。強剛なだけでなく笛の名手でもあり、風雅な一面もあわせもっていたことが覗えます。
 道長の信頼は厚く、この保昌を肥後国司として赴任させることとなりました。道長の日記である「御堂関白記」(みどうかんぱくき)には、保昌が肥後守を命じられて寛弘二年(1005)に熊本に赴いたことが記されています。これは、この当時、肥後国では国司が殺されるなど治安が非常に悪かったため、武勇の誉れ高い保昌に任せられたとされています。

京国司神社(境内)

 一方、当神社の社伝『祇園宮御由来其外一式記録』(寛政二年)にある「祇園宮御勧請式」によると、保昌が府中鎮護と疫病退散ため八坂神社の御分霊を承平四年(934)に、肥後国府へ勧請され祇園社として祀ったとされております。このことは「肥後国誌」にも同じ年代で記されており、前述の「御堂関白記」による保昌が肥後に赴任したとされる時期と当神社の創建年代には差異が生じていますが、当神社では、承平四年を勧請創建年代として代々受け継がれ今に伝えられています。
 また、熊本市にある健軍神社にも「承平年中肥後守保昌修宮殿」との伝承により保昌が承平年間に社殿を修復したことがあり、熊本の各地には「ほうしょうという国司があちこちの神社を修繕した」とも伝わっており、保昌が敬神の念厚く神社再建にも力を注いでいたことが窺い知れます。

和泉式部

 後に、肥後を離れ丹後守として当地へ赴く頃に、情熱的な恋愛歌を多く残したといわれる歌人の和泉式部と結婚しました。八坂神社には祇園祭の山鉾の一つに、保昌に因んだ「保昌山(ほうしょうやま)」といわれるものが行列に加わっています。その姿は、太刀鎧をつけ勇ましい格好の保昌が、紅梅をたくさん持って捧げている様子を表しています。これは、「保昌は和泉式部に惚れ、宮中に咲く梅の花を持って来て欲しいとの願いを叶えるべく、夜中に忍び込んでそれを盗み出し、見事に結婚が実った」という故事を題材にして作られており、昔はこの山鉾を「花盗人山」とも呼んでおりました。
 他に大和守や摂津守なども歴任し、まさに名実ともに優れた人物であったということは言うまでもありません。
 当神社境内に摂社として、祇園社勧請の尽力を称え、藤原保昌を御祭神と仰ぎ「京国司神社」として天下泰平・勝運守護の御神徳高き神としてお祀り申し上げております。

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狂画の鬼才「河鍋暁斎」(その十四) [河鍋暁斎]

(その十四)「風俗鳥獣画帖」(その七 大津絵)

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「風俗鳥獣画帖」(その七 大津絵)絹本着色 (各一九・一×一四・六cm)
『特別展覧会 没後一二〇年記念 絵画の冒険者 暁斎 近代へ架ける橋(京都国立博物館)』所収「作品解説9」

 「雷神」(図六)に続く、図七は、この「大津絵」である。図六と図七との関連は、図六の「雷神」から、大津絵の「鬼」を連想し、そこから「大津絵」(図七)の世界へ転じたということになる。
 「大津絵」は、「大津絵十種」といって、主たる十の画題がある。その「大津絵十種」に因んでの「大津絵節」がある。

げほうの 梯子剃り → 寿老人(外法と大黒の梯子剃り)
雷太鼓で 釣瓶とる → 雷公の太鼓釣り
お若衆は 鷹を持つ → 鷹匠
塗笠お女郎がかたげた藤の花 → 藤娘
座頭のふんどしを犬ワンワンつきや → 座頭
びっくり仰天し 腹立ち杖をばふり上げる → (座頭) 
荒気の鬼もほっきして 鉦しもく → 鬼の寒念仏
瓢箪なまずを しっかとおさえます → 瓢箪鯰
奴さんの尻ふり行列 → 槍持奴
向ふ八巻釣鐘弁慶 → 釣鐘弁慶
矢の根男子 → 矢の根

 この「大津絵」(図七)では、右の上から、「奴」→「座頭」→「藤娘」(女郎)→「鷹匠」(若衆)→「鬼」(ここは、地上での「鬼の寒念仏」など)の図柄である。
 ここで、この図六の地上での「鬼」の「角」の「片一方の角が折れている」のは、「我を折れ」という、そういう教訓が含まれているようである。
 因みに、暁斎には、「雷公の太鼓釣り」の「雷神」図もある。

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暁斎「風神雷神図」(双幅)のうちの「雷神図」(右幅)絹本着色 河鍋暁斎記念博物館蔵
(他に「風神図(左幅)」) 右110.9×31.9  左111.0×31.9 

狂画の鬼才「河鍋暁斎」(その十三) [河鍋暁斎]

(その十三)「風俗鳥獣画帖」(その六 雷神)

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「風俗鳥獣画帖」(その六 雷神)絹本着色 (各一九・一×一四・六cm)
『特別展覧会 没後一二〇年記念 絵画の冒険者 暁斎 近代へ架ける橋(京都国立博物館)』所収「作品解説9」

 その図五の「木嵐の霊」に続いて、この「雷神」(図六)が続く。この順序からすると、前図の「木嵐の霊」は、「風神」ということになる。これは、俳諧(連句)の付合いの関係ですると、図四の「三夕」との関連では、図五は「木嵐の霊」なのだが、図六の「雷神」の関係ですると、図五は「風神」に見立て替えされているということになる。
 その関係で、この「雷神」を見て行くと、図五の「木嵐の霊」(風神)では、「空中」に「紅葉の葉が舞っている」のに比して、この図六の「雷神」では、「地上」に、「人がクワバラクワバラとチリヂリに逃げ惑っている」という図になって来る。
 しかし、この「雷神」の風貌は、暁斎の他の「雷神」に比すると、何ともユーモアのある風貌で、大きな眼を開けて、地上の人間どもが逃げ惑っている様を愉快げに見届けているようである。そして、この大きな眼は、前回紹介した、烏山石燕『画図百鬼夜行』中の「天狗」のギョロっとした眼の雰囲気なのである。
 そして、暁斎には、この「烏天狗」(「迦楼羅(かるら)」)の風貌をした「風神」図がある。

風神・烏天狗.jpg

暁斎筆「風神雷神図」 明治四年(一八七一)以降 双幅 絹本墨画 虎屋蔵 各一〇五・三×二八・八cm (左幅「風神図」の一部拡大)

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