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狂画の鬼才「河鍋暁斎」(その十ニ) [河鍋暁斎]

(その十ニ)「風俗鳥獣画帖」(その五 木嵐の霊)

木嵐の霊.jpg

「風俗鳥獣画帖」(その五 木嵐の霊)絹本着色 (各一九・一×一四・六cm)
『特別展覧会 没後一二〇年記念 絵画の冒険者 暁斎 近代へ架ける橋(京都国立博物館)』所収「作品解説9」

 この「木嵐の霊」は、「三夕」図の次の五図目に当たる。「三夕」が、「三夕の和歌」の「秋の夕暮れ」に焦点を当てたものとすると、この「木嵐の霊」は、その「秋の夕暮れ」時に、空中に舞う「木嵐の霊」(紅葉の葉が舞う=紅葉の精霊?)の雰囲気である。
 「木霊(こだま)」は、「樹木に宿る精霊」(樹神=「古多万=こだま」)の意だが、『嬉遊笑覧』などでは「天狗」のこととされている。この「木嵐の霊」も、「天狗の団扇」(八つ手の葉=テングノウチワ)を持っている感じだが、その「天狗の団扇」は、本来は天狗の羽根から作ったもので、この「木嵐の霊」も、その「天狗の羽根」のようなものが、背中に描かれているような感じである。
 この「木嵐の霊」は、天狗の風貌ではないが、図一・二の「阿国」舞姿の感じでなくもない。そもそも、精霊やら天狗やら亡霊などは、日本の古典芸能の「能」と深い関係を有するものだが、その「能」の「目に見えないものを舞台に出す」という、その「能」の奥義を、「能や狂言」に精通している暁斎が、この一枚の「木嵐の精」に、その神髄を潜ませているという印象を深くする。
 暁斎の「妖怪もの」というのは、鳥山石燕の妖怪画集『画図百鬼夜行』などを参考にしているものが多いのだが、この暁斎の「風俗鳥獣画帖」の中で、一際、一種のメルヘン的な世界を漂わせている、この「木嵐の精」も、似ても似つかない、次の石燕の『画図百鬼夜行』の「天狗」などから示唆を受けているのなかも知れない。

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烏山石燕『画図百鬼夜行』中の「天狗」


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狂画の鬼才「河鍋暁斎」(その十一) [河鍋暁斎]

(その十一)「風俗鳥獣画帖」(その四 三夕)

 その一(「阿国歌舞伎・其一・念仏踊」)、その二(「阿国歌舞伎・其二・散楽」)、その三(「三津木辰之助 槍踊」)の次に、趣向が変わって、「三夕(さんせき)」の図となる。
この「三夕」は、「三夕の和歌」の意であろう。この「三夕の和歌」の作者、「定家」を中央にして、左の人物が「西行」、右の人物が「寂蓮」ということになろう。
 その人物を見立てているものは、その背後の風景で、「西行」には「浦の苫屋」、定家には「鴫立つ沢」、そして、「寂蓮」には「槙立つ山」が描かれている。

■ 三夕の和歌
新古今和歌集の中の、「秋の夕暮」という結びの優れた三首の和歌。定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」、寂蓮の「さびしさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮」、西行の「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮」の三首。三夕。

新361「さびしさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮れ」(寂蓮)
新362「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」(西行)
新363「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」(藤原定家)

 この「三夕の歌」は『新古今和歌集』の「秋上」に3首連続(361、362、363)で並んでいる。

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「風俗鳥獣画帖」(その四 三夕)絹本着色 (各一九・一×一四・六cm)
『特別展覧会 没後一二〇年記念 絵画の冒険者 暁斎 近代へ架ける橋(京都国立博物館)』所収「作品解説9」


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狂画の鬼才「河鍋暁斎」(その十) [河鍋暁斎]

(その十)「風俗鳥獣画帖」(その三 三津木辰之助 槍踊)

 「三津木辰之助」とは、「水木辰之助(初代)」のことであろう。

■水木辰之助(初代) 没年:延享2.9.23(1745.10.18) 生年:延宝1(1673)

 元禄期の若女形の歌舞伎役者。初代大和屋甚兵衛の甥で女婿。子役大和屋牛松,若衆形鶴川辰之助の時代を経て,元禄初年より若女形となる。元禄4(1691)年「娘親の 敵討」での有馬のお藤役が好評で,同8年,江戸へ下るお名残狂言の近松門左衛門作「水木辰之助餞振舞」(彼の得意芸を盛り込んだお家騒動物)でも同役を演じた。歌舞伎の華である所作事(舞踊)を得意とし,地芸(演技)を得意とした初代芳沢あやめとは好対照であった。元禄11年の「金子吉左衛門日記(元禄11年日記)」には,稽古で得意の踊りの振付を担当する姿がある。宝永1(1704)年,伯父の甚兵衛の死を契機に舞台を退いた。3代まであるが初代が最も有名。<参考文献>『歌舞伎評判記集成』1期,「元禄11年日記」(鳥越文蔵『歌舞伎の狂言』)

https://kotobank.jp/word/水木辰之助%28初代%29-1112246

三津木辰之助.jpg

「風俗鳥獣画帖」(その三 三津木辰之助 槍踊)絹本着色 (各一九・一×一四・六cm)
『特別展覧会 没後一二〇年記念 絵画の冒険者 暁斎 近代へ架ける橋(京都国立博物館)』所収「作品解説9」


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狂画の鬼才「河鍋暁斎」(その九) [河鍋暁斎]

(その九)「風俗鳥獣画帖」(その二 阿国歌舞伎・其二・散楽)

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「風俗鳥獣画帖」(その二 阿国歌舞伎・其二・散楽)絹本着色 (各一九・一×一四・六cm)
『特別展覧会 没後一二〇年記念 絵画の冒険者 暁斎 近代へ架ける橋(京都国立博物館)』所収「作品解説9」

■散楽(さんがく)
散楽とは、中国から伝わった、滑稽な物まね、曲芸、呪術など多種多様な芸一般を広く指す。のちに散楽が発展して能・狂言の元になった。
■能・狂言の先祖
もともと散楽は寺社の祭礼で演じられ、国土安穏〔こくどあんのん〕・天下泰平〔てんかたいへい〕を祈祷する事を主な目的としていた。 その後いつしか、一般庶民の娯楽となり、散楽が訛って猿楽(さるがく)となった。大道芸としての道を歩んだ猿楽は、散楽よりもより大道芸的な要素の濃いものになり、また、猿楽とは別に、散楽と農村で行われていた楽芸とが結びついてできた、「田楽」というものが現れた。この芸能は、もともと農村の田植えを囃し立てる為に生まれ、発展した。その後、猿楽と田楽は現在の能・狂言へと向かって融合・発展していった。
■多種多様な芸
散楽の内容は、主に曲芸や軽業、物まね、呪術、奇術などである。今の中国雑技団のような曲芸や軽業〔かるわざ〕、猿の物まね、「火を吹く術」「刀を呑む術」といった呪術を見せたりと、多種多様な芸があった。散楽は日本古来の芸能の影響を受けて、やがて猿楽と言う芸能に発展し、そこから台詞と仕草による滑稽な物まね芝居が「狂言」へ、音楽と舞踊による活劇が「能」になった。

http://iroha-japan.net/iroha/C04_vaudeville/03_sangaku.html

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狂画の鬼才「河鍋暁斎」(その八) [河鍋暁斎]

(その八)「風俗鳥獣画帖」(その一 阿国歌舞伎・其一・念仏踊)

 暁斎の「風俗鳥獣画帖」は、「表面十一図、裏面三図の計十四図からなる画帖」である。葉書二枚分(各一九・一×一四・六cm)ほどしかない絹地の小画面である。
 本図は、その「表面十一図」のトップの「表一図」である。

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「風俗鳥獣画帖」(その一 阿国歌舞伎・其一・念仏踊)絹本着色 (各一九・一×一四・六cm)  
『特別展覧会 没後一二〇年記念 絵画の冒険者 暁斎 近代へ架ける橋(京都国立博物館)』所収「作品解説9」

■歌舞伎(傾奇)
歌舞伎(踊り)は、念仏踊りに発した。これは室町時代の風流(ふりゅう)と呼ばれた民俗舞踊の一種で、流行歌謡曲をうたいながら踊りまわるというものだったらしい。きわめて現代的で、享楽的で、エロチックなレビューめいたものであり、当初は「歌舞妓」と表記した。そうした舞踊劇団や、曲芸をみせる蓮飛(れんとび)、放下師、孔雀や熊の見世物などの興行、といった娯楽施設が、京都鴨川のほとりにかたまっていた。わけても四条河原はアミューズメントセンターともいうべき場所で、その中に出雲阿国と呼ばれる女優の劇団も現われて、満都の民衆から熱狂的に迎えられた。慶長八年以後のことだった。また、北野神社の境内でも興行したと伝えられる。
 記録によると阿国は、黒い絹の僧衣(ころも)をつけ、真紅の唐織の細長い紐で鉦を襟にかけるという、人の目に立つ服装で、その鉦を打ちながら「念佛衆生摂取不捨、南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛」というような文句を唄いながら、踊りまわつたという。
 もっとも阿国は一座の長で、ほかに今でいうバレーとかレビューのダンサーのような、若い女優群がいて、ひらひらと裾を蹴出して、大いに性を発散して踊りまわったらしい。こういう民俗的な舞踊だけでは、変化が乏しいので、間もなく、能狂言師のくずれが、これに参加して、滑稽な写実的な寸劇を、レビューの間に挿入するようになった。この滑稽寸劇を猿若(さるわか)と呼んだ。そうして「念佛踊り」から「歌舞伎おどり」という名前に変わっていった(河竹繁俊著『歌舞伎・文楽史話』から)。
■出雲阿国とは誰か
安土桃山時代の女性で、「阿国歌舞伎」の創始者といわれる。1582(天正十)年奈良の春日若宮拝殿で「ややこ踊り」を演じたとあるのが初見。出雲大社の巫子と称し、神歌や小唄を歌い、それに伴う踊りを踊った。次いで1603(慶長八)年に京都で念仏踊りを始め、さらに、大衆の求めに応じて、はやり唄に合せて唄うようになり、やがてその衣装もより派手にきらびやかになってゆく。まさに「かぶいた衣装」で踊る事から、阿国の踊りは「かぶき踊り」としてもてはやされ、その後、遊女たちの歌舞伎踊りへと発展する。以後模倣する者が排出して、やがて女歌舞伎が形成されていく。しかし、阿国の生涯については不明な点が多く、出身は傀儡(くぐつ)ではないかともいわれる。

www.geocities.jp/yuji_suga/1_gakunen/sabetsu/okuni.html

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