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狂画の鬼才「河鍋暁斎」(その十八) [河鍋暁斎]


(その十八)「風俗鳥獣画帖」(その十一 家猫捕鼠)

家鼠捕鼠.jpg

「風俗鳥獣画帖」(その十一 家猫捕鼠)絹本着色 (各一九・一×一四・六cm)
『特別展覧会 没後一二〇年記念 絵画の冒険者 暁斎 近代へ架ける橋(京都国立博物館)』所収「作品解説9」

 ここまで来ると、この「図十一」の「家猫捕鼠」の、この「家猫」は、「徳川幕藩体制の祖」の「徳川家康」の、その「巨大猫」ということになろう。そして、この「捕鼠」は、前々図(九図)の「前田犬千代(利長)」ということになろう。

http://www.hokkoku.co.jp/kagakikou/toshiie/index.html

 秀吉が没した翌年の1599年(慶長4年)、利家は秀吉の遺言に従い、幼い秀頼を伴って大阪城へ入城した。長男・利長、二男・利政も入り、病気をおして、前田家総力で秀頼を助ける体制を敷く。伏見城の家康が独断専行の兆しを見せると、利家は石田三成ら五奉行に担ぎ出され、一触即発の緊張が走った。結局、和解することになったが、その交渉に自ら伏見城に赴いたのは、「私の死後、法度に背く者があれば単身で当事者を訪ねて意見せよ。それで斬られるのは私に殉じることと同じ忠義の現れである」という、生前の秀吉の言葉からだった。利家は、家康に自分を斬らせて、討伐の大義名分を得るつもりだったのだ。しかし、家康は誘いに乗らず、譲歩を重ねて、和解に応じた。
 それから一カ月後、利家の病状は重くなり、今度は家康が利家を見舞った。このとき、利家が長男・利長に「心得ているな」と念を押すと、利長は「もてなしの準備は整っています」と答えた。利家は、家康に後事を託した。家康が帰ると、利家は布団の中から刀を取り出し、差し違えてでも家康を斬るつもりだったことを利長に告げた。そして、機を読みとれなかった息子に「お前に器量 が有れば家康を生かして帰しはしなかったのに」と嘆いたという。
 1599年(慶長4年)の閏3月3日、秀頼の行く末を案じながら、六十三歳で利家はこの世を去った。まつに筆記させた遺言に従って、遺体は金沢の野田山に埋葬された。 関ヶ原の合戦は翌年9月。家督を継いだ利長は、出家した生母・芳春院(まつ)を江戸へ人質に出し、領地の安泰を図った。利家が息子に託した願いはかなわなかったが、そのおかげで前田家は生き残り、加賀百万石の伝統文化を花開かせることになった。

※ 因みに、この「家猫捕鼠」の、この「猫」の図は、徳川家康を祭った「日光東照宮」の
左甚五郎作の「眠り猫」の化身のようでもある。

https://www.toshogu.jp/shaden/photo/back_img12.html

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狂画の鬼才「河鍋暁斎」(その十七) [河鍋暁斎]

(その十七)「風俗鳥獣画帖」(その十 敗荷と白鷺)

 この十図「敗荷(やれはす)と白鷺」から、「風俗鳥獣画帖」の「鳥獣画」ということになる。鳥羽僧正の『鳥獣戯画』は、暁斎の「鳥獣戯画」の模範とするものであった。そして、鳥羽僧正の『鳥獣戯画』が、「ウサギ・カエル・サル」などを擬人化して、当時の世相の諷刺を狙っているように、暁斎のそれも、背後に、何らかの寓意や諷刺を潜ませているのが常である。
 そして、暁斎の場合は、動物などを擬人化したものの他に、「絵手本」的な「動物画」そのものもあり、「諷刺画」的な「動物画」なのか、それとも、純然たる「動物画」なのかが、甚だ判然としないものが多い。

敗荷白鷺二.jpg

「風俗鳥獣画帖」(その十 敗荷と白鷺)絹本着色 (各一九・一×一四・六cm)
『特別展覧会 没後一二〇年記念 絵画の冒険者 暁斎 近代へ架ける橋(京都国立博物館)』所収「作品解説9」

 この十図の「敗荷と白鷺」も、一見すると「敗(や)れ荷(はす・はちす)を背景とした白鷺」の「絵手本」的なものという印象が強い。しかし、前図(九図)の「前田犬千代(利長)の奮戦」の、次の図ということになると、この図の背後には、やはり、何らかの寓意や諷刺が込められているものと解したい。
 「前田犬千代(利長)」といえば、当然に、「太閤秀吉」との関係が浮かび上がって来る。
とすると、この「白鷺」は、「白鷺城(しらさぎじょう・はくろじょう)」の別名の「出世城」(羽柴秀吉が居城し、その後の出世の拠点となったことから呼ばれる)を意味するところのものとなって来る。
 そして、この「敗(やれ)荷(はす・はちす)」は、「豊臣家の滅亡」を象徴すものという連想が自然と湧いて来る。これが、「豊臣家」の家紋の「桐」などと絡ませると、これこそ、「享保・寛政・天保の改革など」の「政治・思想統制、綱紀粛正」違反として、処罰の対象となって来るところのものであろう。
 ずばり、この暁斎の「敗荷と白鷺」の図(十図)は、「豊臣家の栄華(白鷺)盛衰(敗荷)」を象徴するものと解したい。

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狂画の鬼才「河鍋暁斎」(その十六) [河鍋暁斎]

(その十六)「風俗鳥獣画帖」(その九 前田犬千代(利家)の奮戦)

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「風俗鳥獣画帖」(その九 前田犬千代(利長)の奮戦)絹本着色 (各一九・一×一四・六cm)
『特別展覧会 没後一二〇年記念 絵画の冒険者 暁斎 近代へ架ける橋(京都国立博物館)』所収「作品解説9」

 前図(八図)の「平井保昌」は、「酒呑童子という『鬼』を征伐」した勇将に由来し、その「保昌の沈勇」とは、「袴垂と名乗る大盗賊の親分」が襲い掛かろうとするのを、「悠然と笛を吹いて、未然に防いだ」という、その内に秘めた「沈勇」というようなことなのであろう。
 それに対して、この「前田犬千代(利長)の奮戦」(図九)は、利長の「犬千代」時代に「槍の又左衞門、槍の又左」との異名を有するほどの勇将で、その「犬千代の奮戦」とは、「桶狭間の戦い」「森部の戦い」などの「奮戦」を指し、その「奮戦ぶり」は、平井保昌の「沈勇」とは正反対にし、派手な「傾奇者」の「猛勇」というようなことなのであろう。
 しかし、「平井保昌」(八図)の次に、「前田犬千代」(九図)を持って来るのは、暁斎が仕掛けている「謎」で、それは、恐らく、その「奮戦」ぶりを、「鬼神も三舎を避ける 前田犬千代の奮戦」などと称えられていたことと関係しているように思われる。
 この「鬼神も三舎を避ける」とは、「鬼神すら、三舎(古代中国の軍隊の三日分の行程=長い距離)ほど退却する」というようなことであろう。
 ここに、「平井保昌」(図八)の「鬼退治」と、「前田犬千代」(図九)の「鬼神も避ける奮戦ぶり」との、「鬼」が、両者のキィワードということになる。

https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/35817427.html

国史画帖『大和桜』㊴ 鬼神も三舎を避ける 前田犬千代の奮戦・・

永禄三年(1560年)五月、今川義元駿河、遠江、三河の軍勢四万六千を率い、桶狭間を本陣として先ず織田方の丸根、鷲津の二城を攻め立て、一挙に陥れんとした。
 この時、織田軍に前田犬千代(後に利家と改め、加賀、越前、能登を領し百万石の城主大納言)と云う豪の者があった。
 犬千代は十四才にして小姓として織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持っていた。

 信長の小姓頭を務めていたが勘気に触れ謹慎中、計らずも今川の大軍が押し寄せるとの報を聞き、この際命を捨て功を立てずんば、何時を期してか赦免されんと密かに丸根城主佐久間大学に従って、性来の豪胆槍を以って、敵軍を一手に引き留めて奮戦した。
 後敵将、朝比奈備中守一万五千余を率い、織田勢大隅守二千余騎の中に真一文字に斬り入って来るのを見た。

 二十二才の犬千代、猛虎飛勇の気を振るいて、群がる敵を突きまくり勇気百倍する折から、朝比奈の組下宍戸弥五郎と云う大剛の勇士が、槍引っ提げて犬千代の脇腹目がけて突き来るを一槍で見事討ち取るところへ、今川の将、江間左京正面より、かかるを得たりと身を交わして突き殺し、名だたる敵の騎馬武者十七騎を討って落とし、其余の手負い数知れず。

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